第32章 専属女中は愛されて
(素直に甘えればよいものを…)
「朱里、約束どおり一局付き合え」
「えっ、あ、はい…」
気まずくなった雰囲気を打ち払うように話題を変えた信長は、傍らに置いていた碁盤を扇子で指し示した。
「この勝負、貴様が勝ったら何なりと褒美を取らす。ただし、俺が勝ったら…何でも一つ言うことを聞け」
「ええっ…」
唐突に宣言された賭け勝負に困惑してしまう。
信長様との囲碁では賭けをすることもあったが、賭けの対象は他愛のないものであり、勝ち負けで相手を従わせるようなものではなかった。
(信長様は何を考えて賭けを…?私はまだ一度も信長様に勝ったことはないのに)
「何をお命じになるおつもりですか?」
「それはまだ言わん。というか貴様、やる前から負けるつもりなのか?」
「そういうわけでは…」
信長様は呆れたように鼻で笑いながら碁石を手の内で擦り合わせている。その目は既に勝負に向かう武将の目だった。
「分かっているとは思うが、手加減はせん」
「む、無論です!」
(これは本気のやつだ…というか、信長様はいつだって本気だ。誰が相手であっても手加減など一切なさらない。常に真剣勝負を挑まれる御方だもの)
信長様の気魄に早くも気圧されつつ、私も負けじと碁石を手にしたのだったが……
「………参りました」
白一色に埋め尽くされた碁盤を前に、私はガックリと項垂れた。
当初は互角の打ち合いだったのが、気付けばいつの間にか劣勢に立たされていた。一度崩れれば坂道を転げ落ちるが如くで、その後は全く立て直しが効かなかった。
いつもは負けるにしても良い打ち合いになるのだが、今宵の私は全く良い所がなく、散々に打ち負かされてしまった。
(悔しいけどこの勝負、信長様の意図が気になって全然集中できなかった私の完敗だ)
「何に気を取られておったのか知らんが、今宵の貴様は些か集中に欠けていたな」
「申し訳、ございません」
(信長様は自分だけでなく相手にも真剣勝負を望まれる方だから、気もそぞろで勝負に挑んだ私をお怒りだろうな)
負けたこともだが、信長様を楽しませられなかったことが口惜しい。
「あの…それで、ご命令はどのような…?」
恐る恐る尋ねる私に信長様は満足そうな笑みを浮かべながら、さも当然のように言い放った。
「明日の視察は城下ではなく海を見に行く。そのように手配を致せ」