第32章 専属女中は愛されて
「ふぅ…ご馳走様でした」
「くくっ…良い食いっぷりだったな。貴様を見ていると本当に飽きんな」
「やっ…ひどいです。だって凄く美味しかったので…つい食べ過ぎてしまいました。新鮮な海の幸がこんなに沢山食べられるなんて思いませんでした」
視察先のこの地は海が近いこともあり、今宵の夕餉は海の幸がふんだんに使われた豪勢なものだった。
一応は女中という身分なので、食事は後で城の女中さん達と同じものを頂くつもりだったのだが、信長様は自分と同じものを急遽私にも用意するように頼んで下さったのだ。
(一女中に対しては破格の扱いだけど…怪しまれないかな?)
私への特別扱いが変な誤解を生んではいけないと思うと信長様の甘やかしを素直に喜んでいる場合ではないのだが、悲しい哉、美味しい物の誘惑には勝てなかった。
「この辺りは海にも近く、漁も盛んだからな。海が見たければ明日にでも連れて行ってやるぞ?」
「えっ、でも…」
私の実家である相模国小田原もまた海が近く、私も小さな頃から海が好きでよく遊びに出掛けたものだった。
蒼く澄んだ海にゆらゆらと白波が立つ様は美しく、いつまで見ていても飽きることはなかった。
海と聞いて、途端に懐かしい故郷の海が恋しくなる。
(安土にいては海が見られない私を気遣って誘って下さったのかな?嬉しいけど、視察の予定は決まっているから私の希望で予定を狂わせるわけにはいかない…本当はすごく見たいけど)
信長様の気遣いは嬉しかったが、この視察の旅が滞りなく行えるように信長様をお支えするのが女中としての私に与えられた役目なのだ。自分の希望など軽々しく言えるものではない、と自分自身に言い聞かせた。
「ありがとうございます、御館様。ですが、明日は城下への視察の予定ですので…」
「……海は見たくはない、と?」
「っ…それは、その…」
「安土に帰れば、次はいつ見られるとも分からぬが、いいのか?」
「うっ…(信長様の意地悪っ!)」
私の海への憧れを知っている信長様は、試すように問い掛ける。
「っ…此度は…物見遊山の旅ではありませんので…」
(この視察は信長様のご公務なのだ。私が見たいものを見てもよい旅ではない。信長様のお優しさに甘えてはいけない)
何かに堪えるように唇を引き結び、俯きがちに目を伏せる朱里の姿に信長は密かに溜め息を吐く。