第32章 専属女中は愛されて
「失礼致します、御館様。夕餉の膳をお持ちしました」
夕餉の支度を整えて、再び信長様の元へ伺うと、信長様は碁盤を前に何事か思案されている様子だった。
(あっ…囲碁を?)
信長様は囲碁がお好きで、その腕前は安土一と謳われている。
私も囲碁は幼き頃から父に手解きを受け、安土に来てからは信長様のお相手も何度か務めたことがあるが、未だ一度も勝ったことはない。それでも、信長様と囲碁をする時間は私にとっては時を忘れるほどに楽しいものだった。
「御館様、囲碁をなさいますか?よろしければお相手を致しましょうか?」
「ん…そうだな。では、夕餉の後で一局付き合え」
「はい!」
(嬉しいな。旅先でも信長様と囲碁が打てるなんて。これは本来なら女中の仕事ではないのかもしれないけど、信長様が楽しんで下さるなら…)
いそいそと信長様の前に夕餉の膳を並べながらも、湧き上がる嬉しさを抑えきれず、我知らず表情も緩む。
そんな私に対して、信長様は箸を手に取ってからふと思いついたように問うたのだった。
「……貴様は夕餉は食わんのか?」
「えっ…あ、私は後で…囲碁勝負の後で頂きますので大丈夫です」
「阿呆、大丈夫なわけがなかろう。囲碁の後で、などと言うておっては遅くなる。今ここで共に食えばよい」
「いえ、そういうわけには参りません。私は今、女中ですので」
「…………」
(全く、強情な奴め。二言目には女中女中と言いおって…命じねば言うことを聞かぬか)
頑なに線引きをして甘えようとしない朱里をどのようにして絆してやろうかと、信長は思案を巡らせる。
城主という立場で命じて従わせることは簡単だが、そのようなやり方を恋仲の相手に対してやりたくないというのが本音だった。
「貴様の腹の虫が煩く鳴いては勝負に集中できぬだろう」
「なっ…鳴きませんよ!さすがにそんな恥ずかしいこと…」
ーぐうぅぅ…
(うぅ、なんて間が悪い時に)
あまりにも絶妙な頃合いで響き渡った空腹を訴える音色に、慌ててお腹を押さえたが、時既に遅し、である。
「くくっ…その腹の虫ぐらい貴様も素直になれ」
「ううっ…面目次第もございません」
結局その後、私も信長様と仲良く膳を並べて夕餉を頂くことになった。ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべる顔が恨めしかったが、本音を言えば私も信長様と一緒に食事ができることが嬉しかったのだ。