第32章 専属女中は愛されて
ある日の昼下がり
「失礼致します、信長様」
ご政務中の信長様にお茶をお持ちした私は、いつものように執務室の前で声を掛ける。
「…入れ」
入室を許可する威厳に満ちた声に、自然と背筋が伸びる心地がする。
恋仲の相手とはいえ、公の場での信長は天下人たる威厳に満ちていて、朱里にとっては眩しいばかりの存在なのだった。
入り口の障子をそっと引き開けると、文机の前に腕組みをして座っている信長の姿が目に入る。
その正面には秀吉が相対して座っており、何事か話し合いの最中のようだった。
「あっ…すみません。お茶をお持ちしたんですけど…お忙しかったですか?」
「いや、構わん。大した話ではない。来い、朱里」
腕組みを解き、口元を柔らかく緩めて、信長様は私に傍に来るように手招きする。
秀吉さんの手前、恐縮しながらも茶を載せた盆を持って静々と室内へと入り、信長様の傍に腰を下ろした。
「…秀吉さん、何かあったの?」
信長様は『大した話ではない』と言われたが、苦渋に満ちた難しい顔をして悩ましげに唇を引き結んでいる秀吉さんを見た私は、信長様の御前にも関わらず思わず口を挟んでしまったのだった。
「ああ、実は…御館様の視察に同行する女中の数が急遽足りなくなってな。対応をご相談申し上げていたところだ」
「秀吉、俺は構わんと言っているだろう。数日のことだ、さほどの不都合はない」
「いえ!やはりそれ相応の人数は付けさせて下さい。たとえ城に残る人員が不足しようとも、御館様にご不便をお掛けするわけには参りません!」
「………」
不機嫌そうに眉を顰めた信長は、平伏する秀吉を無言で見下ろす。
「あ、あの、秀吉さん?それって三日後に予定されてる信長様の視察のこと?確か、古くから織田家と親しい大名の城を信長様が訪問されるんだよね」
「そうだ。御館様のお父上の代から誼のある大名家でな、茶会などの誘いもあり、数日は滞在される予定だ。ところが折悪しく御館様付きの女中たち数人が里帰りを願い出ていてなぁ…視察先での御館様の身の回りのお世話をする者が足りなくなったんだ」
「信長様の身の回りのお世話…」
心底困ったというように難しい顔をする秀吉に対して、信長はわざとらしく溜め息を吐く。