第32章 専属女中は愛されて
「そ、それは…私は今、女中なので…」
女中として信長様にお仕えするのだから公私の別は弁えるべきであり、普段のように馴れ馴れしく名前を呼ぶわけにはいかないと思ったのだ。とはいえ、慣れない呼び方なので違和感を感じてしまい、何ともぎこちなくなっているのだが…
(いつものように名前で呼んだら甘えてしまいそうだし…)
「あくまで女中にこだわるか…まぁ、よい。では女中としての貴様に命じる。湯殿で俺の背中を流せ」
「はい!…って、えっ…背中を?そ、それって…一緒に入るってことですか!?」
「当たり前だ。貴様は俺の女中なのだろう?」
「そ、それは…そうですけど…」
(普段はお一人で入られてるよね…?専属の女中さんでも湯殿の中でのお世話まではしてないはずだけど…)
信長様付きの女中は湯殿の支度や着替えなどの準備はしても、湯殿の中には入らないと聞いている。
恋仲の立場でなら、私は何度か一緒に入ったことがあるが…今の私は女中なのだ。
「どうした?嫌なら断ってもよいぞ?城主の命に背く覚悟があるのならば、な?」
「なっ…」(お、横暴っ…)
さも当然のように命じられて動揺してしまうが、女中ならば城主の命には逆らえない…絶対に。
「…畏まりました。ご一緒致します、御館様」
「……………」
素直に命令に従った私に対して信長様は少しも満足そうではなく、私の『御館様』という呼びかけに対しても無言のまま反応を示されなかった。
(機嫌を損ねてしまったのかな…これは予想外に大変かもしれない。でも、信長様のお役に立ちたいって決めたんだから…)
どことなく不機嫌さが漂う信長様の態度にこの先の不安が過ぎりつつも、今更引き返すことはできなかった。
こうして私が信長様に無断で女中になったわけ…
それは数日前に遡るのだった。