第32章 専属女中は愛されて
閉ざされた襖の前で、私は緊張を落ち着かせるように小さく一つ息を吐く。
(いよいよこの時が来た。ここまで来たらもう引き返せない。絶対にやり遂げてみせる)
緊張からか微かに震える手を床につき、見えない襖の向こうに対して頭を下げる。
「失礼致します…御館様」
すっ…と引き開いた襖の向こうに愛しい人の姿が見え、思わず顔が綻びそうになる。
(お顔を見ただけなのに、嬉しくてお傍に行きたくなるなんて…ダメだ、気を引き締めないと…私は今…女中なんだから)
気を抜くと緩みそうになる表情を隠すべく、慌てて深く頭を下げた。
「ゆ、湯浴みの支度が整いましたので湯殿へご案内致します…御館様」
「…貴様、何の真似だ?」
驚きや動揺を露ほども感じさせない、常と変わらぬ冷静な声音に背筋にピリッと緊張が走る。
「やけにあっさり引き下がったと思っていたが、最初から俺に無断でついて来るつもりだったのか?」
「っ…そういうわけじゃないですけど」
「ならば何故ここにおる?そのような格好までして」
信長様は私の姿を上から下までジロリと見て眉を顰める。
私が今着ているのは、大名家の姫らしい華やかな色柄の小袖や打掛ではなく、城の女中達が普段着用している所謂『お仕着せ』と呼ばれるお揃いの無地の地味めな小袖だった。
『お仕着せ』とは大名家の正室が色柄を選び、春と秋の衣替えの前に反物のまま女中に与えるもので、 正室がいない場合は、側室の筆頭の者や奥向きのことを執り仕切る役割の者がその役目を担う。
完成した着物ではなく反物のまま支給されるのは、裁縫の能力が高いことがこの時代の女性の評価の一つでもあり、高貴な身分の女性でない限りは自分の着物は自分が縫うのが当たり前だったからである。
「貴様、よもや本気で女中をやる気か?」
「はい。こちらに滞在中、身の周りのことなどは私にお任せ下さいませ。何なりとお命じ下さい…御館様」
「………気に入らんな」
「はい?」
若干の不機嫌を滲ませた声音でボソリと呟くと、信長は手にしていた扇子で朱里の顎をクイっと持ち上げて上を向かせた。
「っ……」
信長の深紅の眸は不満げに細められ、朱里を問い詰めるように真っ直ぐに見つめてくる。
「っ…な…んでしょうか?御館様」
「その物言いが気に食わんと言っておる。貴様、何故、俺を御館様と呼ぶ?」