第56章 山吹のち、姦し(かしまし)ムスメ
「杏寿郎さん」
「ん…どうした?」
私が声を掛けると、抱きしめられていた腕が緩んで今度は彼の掌が私の両頬を包み込む。
「以前、槇寿郎さんにお酒を下さいってお願いした時に言われました。“継子としても、恋人としてもあなたを支えてあげてほしい”って」
「父上がそんな事を?」
はい…と頷いた私はこう続ける。継子としても恋人としても支える事は難しい —— と。
「む?何故だ?」
やや眉間に皺がよる彼。それはそうだ。
「だって私、まだまだ未熟な人間ですもん。そんな人間が立派な柱であり、自慢の恋人であるあなたを支えるなんておこがましいなあって。実際杏寿郎さんは大きくて重いから、小柄な私ではよろけてしまいます」
「七瀬、冗談が過ぎるぞ」
頬に当てられた右手が離れ、私のおでこを優しく小突く。
「すみません……支える事は難しいのですが、隣で同じ方向は向けます」
「なるほど」
「こうして手を重ねる事も出来ます」
「ふむ」
「それから…」
「それから?」
「………」
「………」
私の両頬を包んでいた掌がゆっくりと離れ、その上から重なっていた自分の両手と絡みあう。
「こう言う事も……出来ます」
目を瞑り、私から彼に一度口付けを贈る。顔を離しながら目を開けると、暗い夜でも日輪のように輝く双眸がこちらをじいっと見つめていた。
“夜明け前が1番暗い”そう聞いた事がある。でもそれが過ぎれば、必ず新しい朝がやって来る。
私にとって杏寿郎さんはその朝を連れて来てくれる…そんな人だ。