第36章 満つ
僕が、ちゃんと見てなくちゃ
いけなかったのに!
そこにある玄関…
覗き下ろすと
…皐月の下駄がない…
「お母さん…‼︎」
振り返った僕は泣いていたと思う。
下駄がないって事は…!
「わかったから!睦月落ち着いて?」
突然、ふわりと抱きしめられた。
程よい力でお母さんの香りに包み込まれると
不安だった気持ちが少し和らいだ。
そしてその分、
涙がぶわっと溢れ出してしまった。
「皐月なら、庭で遊んでるよ」
「………」
混乱のあまり
お母さんの言葉がすぐには理解できない。
「大丈夫、ちゃんといるんだよ」
ちゃんと、いる…
僕は抱きしめてくれている
お母さんの腕を振り解いて、
もうほとんど無意識のうちに
庭へと走り出ていた。
庭なんて、高が知れてる。
ほんの数歩先の所だ。
それが、なんて遠いこと。
走った所で、辿り着かない気さえした。
太陽をいっぱいに浴びて
生い茂る木々。
咲き乱れる花たちの隙間を
転げるようにして駆け回る小さな影。
お父さんと鬼ごっこ…
きゃっきゃと逃げ回る皐月は
鬼に捕まり抱き上げられた瞬間、
きゃーと更に高い声で笑い出し……
あぁ…
元気だった…
お母さんの言った通り…
ちゃんといた。
その確認が取れて、
自分の頭でも理解できた途端に、
全身から力が抜け
その場にへたり込んでしまう。
お父さんに担がれて
楽しそうに笑う皐月を見ると
安心し切ってしまって
さっきまで空回りしていた自分が
可笑しくなってくる。
僕はもう、
その場にお尻をついて…
ぐてんと横たわった。
「ににー‼︎」
あー…可愛らしい声が…
天使かな…
お迎えですかね。
皐月が元気ならそれもいいかも…。
「にに!ねちゃダメやよ‼︎」
あー寝ないよもう。
寝るもんか。
その隙にどっか行っちゃうんだもん皐月は。
「こんなん、ねちゃダメやよ!」
「こんなとこで寝ないよー…もー…」
やっと絞り出した情けない声。
僕の胸に両手を乗せて
ぐらぐら揺らす小さい子を
ぎゅうっと抱きしめた。
遊んでもらっていると思ったのか
きゃきゃと笑い声を上げて
僕から逃げ出そうとしてくる。
無理無理。
もうちょっと実感できるまで。