第73章 さようなら、霧雨
マンションのエントランスに出た。屋根のないところに行くと、当たり前だけど肩が濡れる。
磁石だ。
そこにいる人物を見て、頭に浮かんだのはその言葉。
「那由多」
磁石みたいに、引き合ってしまった。
その名前を呼ぶと、彼はゆっくりと顔を上げた。
生気のない顔だった。
「どうして」
そして、力のない声で言った。
「どうして、お前は傘もなしに出てくるんだ?」
那由多は私にさしていた傘を傾けた。
「忘れちゃったの」
私が言うと、彼は微笑んだ。
「馬鹿」
私はぐっと拳を握りしめた。
那由多がどうしてここに来たとか、もうそんなことより。
雨が降ってるとか、夢のこととか、全部どうでも良く思えた。
「家、入る?」
「……え?」
私はにこりと笑った。那由多はとまどっていた。
「だって、私に会いにきたんでしょ?」
「……」
「いいよ。」
那由多の心は見えない。
だから、言葉でしか話せない。
那由多を家に招き入れて、びしょびしょの傘をベランダに干した。実弥と食べるはずだったご飯を彼と食べた。
「…ウエッ」
私のご飯を食べた那由多は開口一番そう言った。
あ、忘れてた。実弥が文句言わないだけで私の料理ってまずいんだった。那由多の顔が青い。
「……こ、これは…今までにない味付け…だね…」
「…残していいですよ」
「…いや…全部いただくよ。」
那由多は…まあ遠回しに言われたけれど直接的にまずいとは言わなかった。
「こんなことになるなら童男も連れてくるんだった。」
食べている途中、急にしんみりとしたように言った。
まあ無理だろうな。童男、家庭あるって言ってたし。あ、私も家庭あるわ。結婚してるわ。
ご飯を食べ終わった時、ちょうど23時。
実弥はまだ帰ってこない。スマホに連絡なし。
おはぎは那由多を警戒して出てこない。
………。
私はシンクの上にお皿を置いた。
那由多を家に招いた時点で、なんかもう未来なんて見えていた気がした。
私は持っていた皿を背後に投げつけた。