第60章 あの日を忘れない
足元におはぎが擦り寄ってくる。寝る気配を察知したらしい。冬になってから一緒に寝ることが多くなったが、最近はすっかり定着した。
「行かないよ」
おはぎを抱き上げて言う。伝わってくる感情からして、実弥はほっとしたらしい。
「でもいつか行く。」
「…は?」
「今は行かないけど、仕事をたくさんして…また誘ってもらえるよう努力する。」
実弥は私の答えを聞いてポカンとしていた。
「それ、行きたいってことだろ?」
「本当に行きたいなら何があっても私は迷わない。一人になろうがどうなろうが私は行くよ。迷うくらいなら行く必要がない。だから行かない。でも、行きたい気持ちだけはあるから次の機会を待つの。」
迷うなら行くな、と過去の私は無一郎くんに言った。
あの時の言葉は正しいと思う。誰に何と言われようとも。
だから私も、迷うなら行かない。
「お前…」
「ん?」
「男前だな。」
そして感心したようにそう言うので、私は軽く悲鳴を上げた。
「ええ!?わ、わわ私、女の子…!!」
「わかってるよ。まあ、そうだよな。……忘れてたけど、“霧雨さん”は格好いんだったわ。」
「え?え?えええええええ???」
「つってもお前、これからどうするんだよ。木谷さんの会社に行くのか?」
一応、プロジェクトのこと以外に優鈴の会社に誘われたことも話した。
ふざけた冗談だと思っていたのに、優鈴はどうやら本気だったらしい。あのあとさっさと返事をよこせと連絡をしてきたので、そのことについても実弥に相談していたのだ。
「…正社員は魅力的だけど、私はフリーでいいよ。あまり家計の力にはなれないかもしれないけれど……。」
「……そうか。」
実弥は少し残念そうにしていた。
「正社員になった方がいいかな?」
「…俺はその方が安心する」
「はぁ…やっぱり給料の安泰が一番?」
実弥は首を横に振る。
「どんなに具合悪かろうがしんどかろうが毎日毎日休みなくお前が働くのが嫌なんだよ。」
「う?」
「俺の目の届かないところで無茶されるより、仕事量が管理されたところで働いてくれた方がいいような気がするけどな。」
私は優鈴の会社で働くことを反対されると思ったのだが、まさかの賛成。
驚いて目をパチクリさせていると、実弥は真剣な顔で話し始めた。