第29章 海は広くて大きいが
ああ。そうだ。
この人は、私が欲しい言葉をくれるような人だった。
「…悲鳴嶼先輩」
「お前はどうも他人のことを考えてしまうからな。…自分のことを考えて行動してほしい。自分の意見を大切にしてくれ。」
私はその言葉に頷いた。
「さっき電話で不死川が迎えに来ると言っていた。もう服も乾いただろうから、支度をしなさい。」
「はい。」
先輩の言った通りで、私は旅館で借りた浴衣から元の服に着替えた。先輩はその間外にいてくれた。
日帰りプランで部屋を借りていたので日が沈む頃にはチェックアウトを済ませた。
「割り勘で良かったんですか?」
「構わない。私も温泉を堪能できたことだしな。楽しかったよ。」
…自分のことで精一杯だったけど、まさか先輩まで温泉に浸かっていたとは。
「お前といるのは楽しい。それは変わらないな。」
先輩は他人事のように言った。
「…楽しいって思ってたんですね。」
「あぁ、散々振り回されたがな。」
先輩はクスクスと笑った。
実弥がここに来るまでしばらく待つことになりそうだが、退屈はしなさそうだ。
「ねえ、実弥には連絡しますから海まで行きましょうよ。」
先輩は驚いて目を見開いた。
「もう泣きませんから。」
再び波打ち際まで移動する。今度は近づきすぎず、いつかみたいに遠くから眺めた。
「涼しいな」
「そうですね」
潮風がひんやりと冷たい。…もうすぐ夜が来る。
「さっきも言ったが…お前は、いつも他人のことを考えていた。自分の感情は二の次に、誰かのことを優先していた。」
「…。」
「海に行った時、珍しく純粋に喜んでいたから私はひどく後悔したのだと思う。……そばまで行こうと、言えば良かったと。」
私はぎゅっと拳を握りしめた。
「その後悔、今から消せますか。」
「…どう言うことだ?」
「先輩が、海のそばまで行こうって言って、私があなたの手を引いていけば、消えるんじゃないですか。」
私は手を差し出した。
「今なら、私海になんかさらわれませんよ。」
先輩はじっと私の手を見つめていた。