第29章 海は広くて大きいが
先輩は今日は仕事を休んでいたらしい。法事だったそうで…それが終わってブラブラしていたら私を見かけて声をかけたとのこと。
「…まことに申し訳なく……」
「かまわん。」
いや優しさのかたまりか。
海水に濡れた服はコインランドリーで洗って今乾燥機の中だし、しばらくはここにいることになるかな…。
「………顔色が悪いな」
先輩はそう言って窓を開けた。
涼しい風が部屋に入ってくる。ついさっきまで私がいた海がすぐそばに見えた。
夢の中の景色と瓜二つだった。
ずっと眠っていた時。“氷雨くん”に会いに行ったとき。あの時も窓から海が見えた。
「…霧雨」
私は両手で顔を覆って項垂れた。気づけばまた泣いていた。今度は声は出てこなくて、涙だけが静かに流れた。
「どうした」
「何でも、ないです」
「…そうか」
先輩は窓の外に目を向けた。
「私は海に行ったことがない」
そして、唐突にそんなことを言った。
「目が見えなかったからな。でも、そんな私の手を引いて海まで連れていくと言う女の人がいた。彼女も海には行ったことがなかったんだ。」
「………」
「私はその誘いを断った。」
初めて聞いた話ではない。その時のことを、私はよく知っていた。
「…海が彼女をさらってしまいそうだった。そしてそれを引き留める自信が私にはなかった。」
前世の私のことを言っているのだと、わかった。
「結局私たちは遠くから海を眺めるだけだった。…彼女は海を見て嬉しそうに目を輝かせていた。波打ち際まで行けばもっと喜ぶかと思って……。」
そこで先輩は言葉を止めた。
「……いや、すまない。変な話をしてしまった。」
「…いいです。」
「………。」
「先輩の話が聞きたいです。」
そう言うと、彼は罰が悪そうに微笑んだ。この人もだけど、私も大概だ。
聞きたいと言っているのは、自分の話だし。
「波打ち際まで行けば喜ぶと思って…けど、私はさっきも言ったように自信がなかったからその提案ができなかった。悪いことをしたと…なぜかそのことばかり頭に残っていたんだ。
あの時、彼女がどんな風に笑っていたかも思い出せないのに、それだけを覚えていた。」
涙は止まった。泣き腫らした目に違和感はあったが、私はしかと話をする先輩の横顔を見つめていた。