第29章 海は広くて大きいが
『あははっ。びしょ濡れや。』
彼は笑っていた。二人揃ってびしょ濡れだった。
ギリギリのところでお互い思いとどまった。鬼の私は溺死なんてしないけど、人間の彼はゲホゲホと咳き込んで、海塩で傷めた喉をそのままにガラガラの声で話していた。
『なあ、いっぺん死んでみると生きてて良かったって思うやろ?』
彼はそう言った。
『…それを私に伝えるために、わざわざこんな真似をしたのか』
『大事なことやで』
水平線を見つめながら彼は続けた。
『生きてや。もうこれ以上ないって思うその瞬間まで。俺はとっくに死んでるやろうけどな。』
彼はまた笑った。
私はその横顔を見つめていた。
『自分から死ぬなんてことはしない。…いつか、それらしく死ぬよ。』
『ハハッ。何やねん、それらしくって。』
どこかほっとしたように言う彼。
この穏やかな時間が続けばいいのにと思った。
男一人、鬼一人。
ああ、こんな旅も悪くない。
何にも縛られず、どこまでも二人で行こうね。
限られた時間だろうけど、ずっと二人でいようね。
『せや。人間に戻る方法、見つけてみいひん?そんで“らしく”死のうや。』
『いいね、それ』
私は微笑んだ。
波の音が心地よくて、私はソッと目を閉じた。