第95章 僕の師範ー昔の話ー
屋敷に帰ってから、なかなか師範の手紙を読む気になれなくて。
手紙はずっと机の上に放置されていた。
『無一郎くん』
そう書かれた封筒が、恐ろしく見えた。
しばらく放置していたが、柱稽古の時、休憩していた炭治郎がたまたまその手紙を見つけた。どうやら閉め忘れた障子の隙間から風が入って、廊下に吹き飛ばされたらしい。
「これ落ちてたよ。」
炭治郎は優しい笑顔で手紙を僕に渡してきた。
「ありがとう」
おずおずとそれを受け取ると、様子がおかしいことに気づいたのか炭治郎は不安げに俺の顔を覗き込んだ。
「大丈夫?具合でも悪いの?」
「…いや…この手紙、読むかどうか迷ってて……」
「どうして?嫌いな人からもらったの?」
炭治郎の言葉に首を横に振った。
「ううん。一番、大好きな人。」
「それじゃあ、どうして。」
「これは亡くなった師範が、記憶を取り戻した僕に向かって残してくれた手紙なんだ。」
包み隠さずに話すと、炭治郎は固まってしまった。
困らせたかな、と慌てて誤魔化そうとしたが、静寂を破ったのは炭治郎だった。
「時透くんは、手紙をもらって嬉しいのに、悲しいんだね。」
「え?」
「手紙を読んでもその人は戻ってきてくれないことがわかっているから。」
炭治郎はまるで、僕の心を代弁してくれているようだった。
「どうしたらいいか…わからないんだ。師範のことになると胸が苦しくて。」
だからこそ初めて素直な気持ちを言葉にできた。
「俺が言えたことではないけど…。」
「……」
「時透くんの師範は、その苦しみをやわらげたくてその手紙を書いたんじゃないかな。」
まだ開けてもいない手紙に目を落とす。
あの人は何を思ってこれを書いたのだろう。
それはもうわからないけど。
「ありがとう、炭治郎。少し楽になった。」
そのとき、ようやく僕は手紙を読む覚悟ができた。