第90章 昔昔のそのまた昔
その後、私は愈史郎さんの仕事を手伝ったり家のことをしながら過ごした。
愈史郎さんは医者…ではないが、医者のようなことをしているらしい。
怪我をした人が来たり、病気の人が頼りに来たりする。
今日も仕事中に腕を骨折したと言う男の人が家に来て治療を受けていた。
彼は初めて見る私に驚いていた。
「ん?先生結婚したんですか?」
「そんなわけあるか。俺は珠世様一筋だ。コイツは古い知り合いで霧雨という。」
「霧雨さん?」
その男性の後ろから、小さな子供が現れた。
「僕、この近くに住んでるんだ。10歳なの!」
その子を見て、ふと何かを思い出したような、そんな錯覚に陥った。
霞がかかった記憶の中に、誰かいる気がする。…この子と同じ歳くらいの、男の子が。
「僕、お兄ちゃんはいるけどお姉ちゃんはいないの。遊んでくれませんか?」
私に向かって伸ばしてくる手が、懐かしい気がした。
「…また、今度。」
そう答えた。
記憶の中の過去の私も、誰かにそう答えていた気がした。
もしかしたらその今度は来なかったのかもしれないけれど。
その親子を見送って、私はぼんやりと縁側から外を見つめていた。
「なあ愈史郎さん」
「なんだ?」
「私って子供がいたりしたのか?なんだかちいさな子供と暮らしていた気がするんだが。」
私の質問に、彼はしばらく考え込むように黙り込んだ。
「……ああ、いたな。ずいぶんとお前に似たガキが。」
そう答える彼の目もどこか遠くを見つめているようだった。
「死ぬ間際までお前にそっくりだった。」
「死んだのか。」
「ああ。それはひどい死に方だった。」
彼はふっと笑った。
「死に際まで師に似なくてもいいのにな。…あの時はどいつもこいつも生き急いでいた。」
そう言う愈史郎さんが思い描く記憶の中に、私はいるのだろうか。
私は何も覚えていない。
きっと思い出すこともないのだろう。