第90章 昔昔のそのまた昔
しばらくして、私の絵はできあがった。
見せろと彼が言うので絵を差し出すと、愈史郎さんは目を見開いた。
「これは…」
「絵を描いてる愈史郎さん。」
「そうか。破壊的に下手で驚いている。これはほんとうに人間か?」
そう言う彼に私は少し腹が立った。
「自由に描けと言ったのはあなただ。」
「自由すぎる!どうして俺の目がこんなとんちきなところにあるんだ!福笑いでもまだましだぞ!!」
「……芸術だ」
「そう言われればそうかもしれん」
私の一言で愈史郎さんはおとなしくなった。阿呆だ。
「そもそも私は絵なんて描いたことがないんだ。」
「忘れているだけであるんじゃないのか?」
「頭の記憶は無いが体の記憶は残っているんだ。体で覚えていることはそのまま再現できるが、それができないのなら絵とは無縁の生活をしていたのだろうな。」
そう言うと、愈史郎さんは考え込むように黙り込んだ。
「まあ…絵は積み重ねだ。うまくなりたいのなら描き続けることだな。」
「なら愈史郎さんはうまくなりたいから描いているのか?」
「忘れたくないだけだ。俺は。」
彼は絵の中の女性をじっと見つめる。
「俺もお前と同じだ。欠落した記憶はそう少なくはない。でもこの人のことだけは忘れたくないんだ。」
「………」
私はそう言う彼の顔を見つめた。
「………なら、私は私を描こう。」
「…自分をか?」
「ああ。忘れてはいけない気がするんだ。」
ぐっと自分の胸の前で拳を握りしめる。
「私が今こうして生きていることに、何か意味があるように思うから。」
もう私は何も覚えていない。自分の名前さえも。
でも私が生きていることは確かだ。
だから、せめて。
「今覚えているだけの景色を絵にしてみたい。」
何も意味が無いように思える、かすんだ記憶を残したいと思う。