第90章 昔昔のそのまた昔
いくら昔に知り合いだったとはいえ、私の記憶から彼は消えている。
そんな男と二人暮らしなんてよく考えればおかしい話だが、彼と過ごすのはつまらなくはなかった。
「この家には猫がよく来るんだな。」
「鬼とはいえ、茶々丸に釣られてきているんだろう。」
「そうか。ところで、愈史郎さんは一体何をしているんだ?」
彼は筆を持って、分厚い紙…キャンバスというらしいが、それに狂ったように絵の具を塗りたくっていた。
「珠世様を描いている。俺は画家だからな。」
「…珠世…というのか、その人は。」
キャンバスには美しい女性が描かれていた。どこか寂しげな表情が儚さを醸し出している。
「お前、珠世様のことまで忘れたのか。」
「私は会ったことがあるのか?」
「ああ。俺とお前と珠世様で過ごしていた時があるくらいだ。全く、忘れるとは薄情なやつだな。」
「そうなのか。しかし、綺麗に描くな。」
私は感心して彼の手際を見ていたが、慣れたようにサラサラと描いていくのでどうやっているのかはいまいちわからない。
「絵はいいぞ。心の整理になる。」
「そんなものか?」
「お前も描いてみたらどうだ。暇なんだろう?」
彼から差し出されたのは一冊のノートと鉛筆だった。
「絵の描き方なんて知らない。」
「知らなくていい。やってみろ。」
「……そうは言われても何を描けばいいんだ。」
「自由に描け。」
「難しいな。」
自由にしろと言われるのが1番難しいんだ。
私は少し頭を悩ませたが、10分後には紙に向かって鉛筆を走らせていた。