第90章 昔昔のそのまた昔
彼に連れてこられたのは新しい日本家屋の一軒家だった。決して大きくはないが、ここに一人で暮らしているのならかなり場所が余るだろう。
「もてなすものは何もないが…お互い鬼だし、飲み食いの必要がないからいいな。」
「…愈史郎さんは一人か?」
「ああ。もうずっとだ。お前は?刀鍛冶と旅をしていたんだろう。」
「本当に私のことを知っているんだな。」
「なんだ、刀鍛冶のことは覚えているのか。」
「ああ。」
私は、ずっと一人の男の子と旅をしていた。
ずっとずっと。ただ歩くだけの。ただ歩いて、景色を見るだけの旅をしていた。
「刀鍛冶は…」
「死んだ」
「そうか。なんて名前だったか。」
「忘れた」
「……そう、か。」
「…彼は刀鍛冶だったんだな。」
私はふう、と息を吐いた。
じっと自分の右手を見つめる。
「不思議な子だった。いつも私の手を引いて歩いてくれた。何をするにも二の足を踏んで、何かをしようともしない私を引っ張ってくれた。」
「…良い奴だったんだな。俺は会ったことはないが。」
「ずっと歩いて景色を見るだけの、なんてことのない旅をしていた。あの子はそのうち歩けなくなって、座ることもできなくなって、気づけばしわくちゃになって死んでいた。
私が名前も思い出せないのを責めたりしない子だった。ずっとずっと私のそばにいてくれた。いったい何だったんだろうか、あの子は。」
私が言い終わると、愈史郎さんは天井を見上げた。
「どうせ忘れてるんだろうが、お前はある大仕事が終わった後に死のうとしていたんだ。」
「……」
「その刀鍛冶は、お前に死んでほしくなかったんだろう。」
愈史郎さんの言葉に、私は下を向いた。
「私はもう死にたい。」
「そうか。」
体裁のいい慰めの言葉がくるかと思ったが、愈史郎さんは意外にも肯定した。
なんと言ったらいいのかわからないが……張り詰めていたものが、緩んでいく気がした。
「実はな、俺もそんなに長くはないんだ。この家が俺の最終地点だ。」
彼の笑顔が、記憶の中にある刀鍛冶のあの子に似ている気がした。
もうすぐ死ぬ奴の顔だ。
「行く場所もやることもないのなら、少し付き合え。」
その言葉に深く考えもせず頷いた。
こうして、私と彼の奇妙な二人暮らしが始まったのである。