第90章 昔昔のそのまた昔
真夜中。
波打ち際に一人佇み、私は風に吹かれていた。
「…」
低い男の声が聞こえた。
「か!?」
振り返ると、そこには一人の男がいた。男は砂浜の上を転びそうになりながらも走り、私のそばまで来た。
「………誰だ」
「覚えていないのか!?」
私は首を傾げた。
「あ、もしかして、ゆ…」
「『ゆ』…ッそ、そうだ!俺の名前は!?」
「ゆいちめい?」
「色々混ざってる!!!!!色々混ざっているぞ!!!!!」
……この大声で叫ぶ姿、知らないのかと言われれば知っているような気がするのだが。
「私の知り合いか?」
「…まぁ、そうだが。」
「すまない。ここ100年以外のことは大体全て忘れているんだ。」
そういうと、彼は呆れたようにため息をついた。
「薄情なやつだな。俺のことさえ覚えていないのか。まさか自分が鬼であることも忘れているのか?」
「鬼………………って…なんだ?」
「………元最強の鬼狩りが鬼のことまで忘れるのか」
「鬼狩り…?」
私の様子を見て男ははぁ、とため息をついた。
「まぁいい。忘れたのならもう一度最初からだ。生きていればやり直しがきくんだからな。」
仏頂面でそう言って彼は続けた。
「俺は山本愈史郎。鬼だ。そしてお前の名は霧雨。」
「それで、私も鬼だと?」
「そうだ。」
「そうか。わかった。」
「……あっさり信じるんだな。」
「あんたを信じる根拠もないが疑う根拠もないしな。まぁよろしく頼む…愈史郎さん。」
彼は月明かりの下、ふっと笑った。
「お前…変わらないな。」
「そうなのか。」
「ああ。少し安心したよ。馬鹿は馬鹿のままだ。」
その足元に、一匹の三毛猫がいた。視線を感じると思ったらこの猫か。黒い瞳でこれでもかと言うほど私を凝視している。
「見ろ、茶々丸はお前のことを覚えているぞ。」
「茶々丸というのか。」
私が名前を呼ぶと、茶々丸はトコトコと歩いて私の足に擦り寄ってきた。
「……とりあえず…。色々と聞きたいことがある。どうせ行き場所もないんだろうし俺の家に来い。」
愈史郎さんは有無を言わさず私の手を引いた。
断る理由もなかったので、深く考えずに彼について行った。