第85章 不穏
「……まず、事件のことを詳しく思い出したのは今日が初めてです。振り被る影を見たからなのか、他に理由があるのかは分かりませんが…、今まではありませんでした。」
杏「そうか。では思い出したのは保健室で話した内容が全てか。」
「今のところは…そうです。影と声…言葉を思い出しただけです。」
杏「言われた言葉だけではなく音で思い出したのか。」
それに桜はこくりと頷いてココアを飲む。
その季節外れな飲み物は血の気が引きそうになる体に熱を与えてくれた。
杏寿郎は桜の落ち着いた様子を見て少し安堵の息をつきながらも眉を顰める。
杏(『振り被る影を見たからなのか、他に理由があるのかは分からない』か。今日の様子、急激な変化は異常だった。普通は今日の振り被る影が原因だと断言する。無意識にだろうが断言しないという事は今日よりも前に何かを見ているな。)
杏「………大学の友人に会いに行った際、道では誰にも声を掛けられなかったと言っていたな。レストランの中ではどうだった。」
「え……っと、」
桜は意表を突かれた顔をしたがすぐに思い出すように眉を寄せる。
「店員さんはよく話し掛けてきましたが、他のお客さんは女性がとっても多かったですし特には…。」
杏「店員は男だな。顔に見覚えはなかったか。」
「あ、あまり見てなくて…覚えてないです……。」
事件以来 基本的に男の顔を長く見つめるのに抵抗を持っている桜は店員の顔を全く覚えていなかった。