第104章 始
「⋯⋯いや、駄目じゃないが、もったいない」
「もう、疲れたの」
宇那手は、顔を伏せた。
「最初にショートで91.62を出した時には、世界中の人が驚愕した。フリーも合わせて263.76を出して、激震が奔った。⋯⋯でも、その効力も有限で、もっと、もっとと上を求められる。心底疲れた。錆兎は、どうして水泳を辞めたの?」
「それは⋯⋯」
言い淀んだ彼に、宇那手は、憎悪にも似た表情を向けた。
「自分は周囲の期待から逃げたくせに、私には逃げるなと言うの?! ⋯⋯ごめん。今は話したくない」
彼女の意を汲んで、義一は錆兎と真菰を連れて席に戻ってくれた。
宇那手の心の中には、複雑な感情が渦巻いていた。長年思いを寄せていた義一が、自分の方を見ていてくれていた喜び。何も知らずに、平穏に暮らす錆兎や真菰に対する羨望。これから、自分が周囲に向けられるであろう、感情への不安。
「火憐」
義一が、一人で宇那手の元へ戻って来た。彼は、彼女の肩にそっと手を置いて、顔を近付けた。
「もう一人じゃ無い。今度は死なせない。絶対に守る。思うままに生きてくれ。例え、お前の描く人生に俺がいなくとも──」
「貴方は、ずっと私の心の中心にいた。⋯⋯ずっと⋯⋯ずっと貴方を見ていた。貴方の心が私の物なら、何も怖くない」
宇那手は、顔を上げて微笑んだ。
「大好き、義一君」
彼女の言葉に、義一はカッと頬を赤らめた。