第89章 激怒
「二時間」
愈史郎は言葉を遮った。
「アイツは二時間堪えた。その後、更に一時間は鬼舞辻の腕の中にいた。話を聞く限り、童磨よりは、余程マシな方だ。身体の損傷も無い様子だった。流石に今朝の連絡は途絶えたが、昼過ぎには鍛錬に励んでいた」
一拍置いて。不死川は恐怖に慄いた。こんな感覚を味わうのは、久しぶりの事だった。
冨岡はガラス窓を拳で叩き割り、机上に置かれていた本を床に投げ付けた。床にはひびが入っていた。
鬼の愈史郎は、破片が突き刺さるのも厭わず、その様子を静かに見詰めていた。
(咎める資格は無い。珠世様を喪ったら、俺もこうなるだろう。いや、鬼の俺は、これだけでは済まない)
冨岡が懐から簪を出したので、不死川は慌てて止めに入ろうとした。しかし、愈史郎がそれを遮った。
冨岡は、一等高価な簪を、首に突き刺していた。強い鎮静剤が含まれた物だ。
「⋯⋯気が済んだか? 済むはずがないか」
愈史郎はようやく立ち上がり、冨岡に椅子を譲った。数分もすれば、立っていられなくなるはずだ。
「胡蝶! 胡蝶!!」
愈史郎は、部屋の外で耳を塞いでいた女性を呼び戻した。
彼女は荒れ果てた部屋を一望し、深い溜息を吐いた。余程の事があったと捉えるべきだと思った。怒りっぽい不死川は、衝撃のあまり固まっていた。
「胡蝶。少量だが、コイツ、モルヒネを摂取した」
「そんな物何処で⋯⋯」
胡蝶は、冨岡の手に握られている簪に目を向けた。力なく握る手からそれを取り上げると、木の部分に”鎮静剤”と書かれていた。
「⋯⋯こんな強い薬を⋯⋯あの子が⋯⋯。冨岡さんが、こうなると分かっていたのでしょうか⋯⋯? 冨岡さん。⋯⋯冨岡さん!」
呼び掛けても、返事は無かった。意識はハッキリしているのに、目が虚で死んでいる。
「冨岡さん」
胡蝶は、床に膝を着いた。
「冨岡さん。頭痛は?」
「無い」
「吐き気は?」
「ある。俺は⋯⋯俺は未熟だ。アイツが数時間にも及ぶ責め苦の後、鍛錬に励んでいるというのに⋯⋯怒りと不安で動けなくなる。⋯⋯アイツの事を考えれば、考える程⋯⋯恐怖で⋯⋯」