第76章 鬼ごっこ
「⋯⋯ありがとう」
宇那手は、淡く微笑んだ。胡蝶は、拳を握り、振り上げた。
「貴女を奇異の目で見る人がいたら、私が殴ります」
「いえ、私は自分で殴りたい性格なので」
「では、二人で殴りましょう」
胡蝶は、そう言うと、冨岡に視線をやった。奇しくも、宇那手も彼に満面の笑みを向けていた。
「⋯⋯俺は殴られるのか?」
冨岡は身構えた。宇那手は、そんな彼に抱き着いた。
「殴りません。腹が立っても、気味悪がられても、私は、貴方を好きなので。私が勝手に貴方を好きなので、理解して貰えるまで⋯⋯好いて貰えるまで、何度でも抱き締めます」
「俺は──」
「こらぁぁぁぁぁ!!!!!」
バリンとガラスの割れる音と、アオイの絶叫が響いた。
「あれは、伊之助君の仕業でしょうか? 全く、この屋敷のガラスを何枚割れば気が済むのかしら」
胡蝶は青筋を立てていた。笑顔のままだが、今度こそ本当に怒っている。宇那手は、冨岡と一瞬視線を交わして、立ち上がった。
「私が殴って来ます。私の継子なので」
彼女は屋敷に上がり込み、しばらくすると庭まで怒声が響き渡った。
「猪之助!!! 硝子代を払いなさい!!! どうして無闇に物を壊すの!!!」
「此処から入った方が早ぇからだ!!」
「お願いだから、務所から引き摺り出されたばかりの様な口の利き方をしないで!!! 良い?! 硝子窓というのは、病室に必要な物なの!!! 日光を取り入れながら部屋の温度を保つ──」
「⋯⋯やっぱり、優しいですね」
胡蝶は笑みを溢した。猪之助は、山で育ったから、人間の常識に疎い部分がある。宇那手は、その点について一切責めず、きちんと怒りの理由を説明しているのだ。
「冨岡さん、大切にしてあげてくださいね。出来る事は限られていると思いますが、出立の前に、何か贈って差し上げては?」