第88章 夜には、私の名前を呼んで〜明智光秀〜
光秀さんには、許嫁がいる。
それを知ったのは、城に来てまだ間もない頃。
光秀さんは元々遠い存在だったけれど、その事実は彼をさらに遠く感じさせた。
「光秀さんにもそんな人がいるのね。感情とか無さそうだと思っていたから、驚いた」
私が秀吉さんに言うと、秀吉さんは苛立ちを滲ませた。
「…そんないいもんじゃねぇよ」
「え?愛し合っている相手じゃないの?」
「光秀の許嫁は、反織田勢力の一族の娘だ。愛なんてない。あいつはまた勝手にそんなことを決めたんだ。俺たちには黙ってな」
「そう…だったの…」
どこかでほっとしている自分がいた。
だからって私が選ばれるわけじゃないのに。
彼は許嫁の人を愛していない…そんなことがこんなに嬉しいなんて。
私は、どうかしている。
「表向きは婚姻だが、自分を政事の駒にして人生を決めたようなもんだ」
…政略結婚。
この時代なら、きっと間々あるだろう。
彼らしい生き様だと思った。
夜…
気づけば足が向いていた。
いけない、そう何度も思っていたのに。
私の身体が勝手にここまで連れてきたのだ。
光秀さんの自室の前まで来た私は、やはり引き返そうとした…が、襖が少しだけ開いているのに気づいた。
光秀さん…?
名前を呼ぼうとして息を呑んだ、その時。
「小娘だろう?」
まるで私が来るのをわかっていたかのように、襖の向こうから声がした。
少し湿ったような低い声。
その声に引き寄せられるように、私は襖を開けた。
襖の向こう、灯りの中で光秀さんは机に向かっていた。
何か書状でも書いていたのか、筆を止めてゆっくりとこちらを見た。
「…来ると思っていた」
そう言って、口の端だけ上げた。