第74章 ひと夏の恋でもいいから〜武田信玄〜
「…どうした、葉月。泣きそうな顔をして。そんな顔で優しいと言われても複雑な気持ちになるよ」
信玄様は私の頬を片手で包むと、あやすように親指でそっと撫でた。
「優しくされて嬉しいんです」
「そうは見えないよ」
上手く言えなくて、それ以上は言葉が続かない。
信玄様は困ったように笑った。
本当は優しいだけじゃない、何かが欲しい。
何か確かなモノが欲しい。
…それが欲しいなら言わなくてはいけない言葉があるのはわかるけど、その言葉だけはどうしても言えない。
たった二文字の短い言葉なのに。
私は誤魔化すように笑った。
「きっと、夏は感傷的な気持ちになりやすいんですよ…女の子は。だから、欲望だらけの人の好意も真実の愛かと思って受け取ってしまうんだと思います」
「…葉月もそうなるのかい?」
「なる、かもしれません」
さっきまで文句言ってたのに、最低ですよね…私がそう言うと、信玄様がふっと笑った。
「なら、試してみようか」
試す…?
「何を試すんですか?」
「ひと夏の恋さ」
えっ…
何を言われているのかわからず、私は返答に困った。
信玄様のいつものジョークだろうか。
私が苦手な甘い戯れ?
「…なんて答えたら良いんですか?」
「簡単さ。自分の想いを言えばいいんだよ。嫌なら嫌と。したいならしたい…と」
「信玄様は…したいんですか?私と」
やや間があった。
たった何秒かだけの沈黙がやけに長く感じて、質問を取り消したくなった時…
信玄様がさっきよりも顔を近づけて、大人っぽく笑いながら言った。
「……したいよ、勿論」
「俺にこんな感情まで言わせるなんて、葉月は悪い子だね」と、私の唇を親指でなぞりながら意地悪く呟いた。