第74章 ひと夏の恋でもいいから〜武田信玄〜
段々と空が暗くなっていき、涼しい風が吹いた。
この時代の夏は、私たちの時代よりも過ごしやすい。
私の顔を風が撫でて、汗で張り付いていた髪が流れた。
信玄様も気持ち良さそうに目を瞑り、風を受け止めている姿を見た時…
一時でもいい
ひと夏の恋でもいい…この人となら
その唇に私のを重ねたい
そんな強い感情が胸の奥から湧き上がった。
さっきの自分の発言とはまるで真逆なことを思ってしまったことに驚きつつも、この夏特有の切なさが私の気持ちをそうさせているのだと気づく。
夏は…切ない。
何もかも一瞬で過ぎて二度と戻ってこないような、そんな儚さがある。
そうか、だからみんな熱く抱き合うのね。
一瞬にしたくなくて。
ずっと繋がっていたくて…。
でも、そう願っても結果は真逆なんて
夏の恋の短命さが哀しい。
それでも構わないから、
もうあなたが私を好きになる保証がないなら…
今宵、花火のように呆気なく散ってもいいから思い出が欲しい。
「信玄様…、手を貸して下さい」
「手?構わないが、どうするんだい?」
少し首を傾げて、信玄様は言われるがまま私に手を出した。
優しく差し出された大きな手をじっと見つめながら…私はずっと我慢していたことを思い出した。
私は、信玄様のこの何もかも包み込むような男らしい手が好きだった。
この手に触れたかった。
触りたかった。
…信玄様に、ずっと触りたかった。
「信玄様の手、私前から好きだったんです」
「…俺の手?ありがとう。なんだか照れるね」
触ってもいいですか?
その一言がどうしても言えなくて、言葉に詰まった。
「こんな手で良かったら、好きにしていいよ」
察しの良い信玄様は、いつもこうやって私の気持ちを先回りして助けてくれる。
私は泣きそうになった。
「…どうしていつも優しくしてくれるんですか?」
「どうして?理由が必要かい?」
「信玄様が誰にでも優しいのは知ってます…」
「誰にでも、は語弊があるな。そんなにお人好しではないさ」
「分け隔てなく優しいですよ、私の目から見ても」
「君は俺を買い被っているね。そんな人間じゃないさ」
そう言って、その手が私の頬に伸びた。