第30章 涙を流す場所〜織田信長〜
ふと、私の視線に気づき、視線を此方に向けた。
その時、信長様の匂いが一瞬した気がしてどきりとする。
口元が優しげに緩み、あたたかな瞳で私を見た。
大人の男性を強調するような笑顔に、私はいつも慣れない。
「起きたのか」
低く、お腹に響く声だ。
彼はいつも多くを語らない。
それが始めは苦手だった。
怖かったのだ、彼が。
何を考えているかわからなくて。
「はい…また寝ちゃいましたか?」
「あぁ。また、だな」
「申し訳ありません」
「思ってもないことを口にするな。構わん」
私が申し訳ないなんて思ってないってこと?
少しむくれた私の顔を、信長様は見逃さなかった。
「…おい貴様。俺の膝で寝ておいて、その顔はなんだ」
「わぁ!すみませんでしたっ」
私は膝から起き上がると、慌てて彼から離れた。
ふと温もりがなくなり、肌寒さを感じた。
心も物足りなさを感じてしまいそうになる。
私は気を紛らわしたくて、障子を開けた。
冬の空は空気が澄んでいる。
吐く息が白く、肌に触れるのが気持ちいい。
この時代の夜空は綺麗過ぎて悲しくなる。
私は振り返って言った。
「月が、綺麗ですね」
「あぁ。そうだな」
「信長様も『月が綺麗ですね』と私に言って下さい」
「…それはまじないか何かか?」
「そうです…ね。良いことが起きますよ」
嘘だ。
私は欲しくなったのだ。
まだ意味を知らないであろう、この言葉を。
彼は大真面目な顔をして、私に向き直ると
「葉月、今宵は月が綺麗だな」
そう言って、微笑んだ。
「…これで良いか?おい。なぜ、顔を隠している」
「いえいえ、なんでもありません」
騙されている信長様が可愛いのと。
いきなりの名前呼びと、
無理矢理言わせた、彼の知らない愛の言葉。
私は顔を隠しながら返事をした。
なんだか堪らなくなり、顔が赤くなる。
これ以上此処にいたら駄目だ…。
私から甘く切ない香りがしてくるのを感じた。