第5章 トリガーの襲来
「わたしをかえして!」
舞台の中心で叫ぶ幼い少女。
客席からその演技を眺めているのは、一人の男だけ。
男は首を横に振る。
少女はもう一度、同じセリフを口にした。
「わたしをかえしてっ!」
少し怒っているような言い方に変えてみる。
しかし男はまたも首を横に振る。
「わたしを、かえして」
泣きそうな声で演技する。
だが男は首を横に振った。
「わたしをかえしてぇ!」
涙ぐみながらの同じセリフ。
男は首を横に振る。
少女は、唇にぎゅっときつく力を入れる。
「・・・あの、どこがダメなんですか?」
男に対して、少女が震えた声で尋ねた。
「もう、いやです。私はもっと、かっこいい人がしたいです。こんな、弱い役ばっかり、したくないです!」
黙ったままの男に怯えながら、少女が自分の思いを訴える。
「こんな、おけいこ、ばっかり、いやです!」
しかし少女の訴えは、男の耳に届いていないのか、男から答えは返ってこない。
「あの、だんちょうさん」
そのまま歩み寄り、舞台から降りようとする少女に、男はようやく話した。
「動くな! 舞台から逃げるんじゃない」
怒鳴るような団長の指示に、少女は体をビクつかせながら、元の位置に戻った。
震えて、泣きそうな声になりながら、少女が呟く。
「かえりたい」
ぽたり、ぽたり、と瞳から涙がこぼれて、舞台の床に落ちた。
「私、おうちに帰りたいです。帰して!」
――わたしをかえして!
涙をこらえて震えながら訴えた少女に、男はようやく笑顔を見せた。
「それだよ。そうだ、今のセリフだ。それを本番でもやるんだよ!」
客席から立ち上がり、舞台の前まで歩いてきた団長は、少女をおいでおいで、した。
まだ震える少女が団長の前まで歩いていくと、優しく抱っこされる。
「今の演技を忘れちゃだめだよ。このシーンは、物語で一番重要な場面なのだから。上手くできたら、次はもっと良い役をあげるよ」
少女を両腕で抱きかかえ、団長はそれまでの態度が嘘のように柔らかい笑みを浮かべて、少女の髪をなでる。
劇団の稽古は、入ったばかりの時に比べて、ずっと苦しい物になっていた。
団長さんから向けられる期待が怖くて、でもその期待に答える事しか、できなかった。
思い返せば、あの頃も「断る」という事ができない人間だったのだ。