第3章 籠鳥姫
言われた通りに右手でコートの端を持つと、再び左手が握られる。
和泉さんの右手は、雨の中でも変わらず温かい。
和泉さんは、私の歩幅に合わせながら、ふらつく私を引いて歩いてくれた。
この洗いたてのフワフワのタオルみたいな優しさに、私は、甘えてしまっても良いのだろうか。
頭がぼんやりする。
難しい事が考えられない。
でも、それが心地良い。
小さい頃、私が熱を出すと母はとても心配してくれた。
熱で食欲の無い私を気遣って、仕事をわざわざ休み、手作りの酒粕汁を作って、ふうふうと一口ずつ冷まして、私の口へ運んで食べさせてくれた。
苦い薬をちゃんと飲めたら、ぎゅっと抱きしめて、頭をよしよししてくれた。
熱に魘されて悪夢を見た時は、母が私の手を握って、隣で一緒に眠ってくれた。
もう怖い悪夢を見ないようにおまじないとして、子守唄を聞かせてくれながら。
でも、弟が熱を出した時にも母が同じ事をしていて、ちょっと複雑な気持ちになった事も覚えている。
熱で苦しむ弟は私も心配だったけれど、母を取られたような気分になって。
だから私は、洗い場まで椅子を運んできて皿洗いをしたり、おつかいをしたり。
母の気を引こうと必死になって家のお手伝いをしていたな。
でも、母が弟に子守唄を歌っていると、私もそばに座って、母と一緒に歌った。
――わあるい鬼もこわいオバケも、みんな追い払ってあげる。ゆらりふわり、おやすみなさい。守ってあげる、おやすみなさい。わあるい鬼もこわいオバケも、みんな追い払ってあげる。おやすみなさい。おやすみなさい――。
生まれてきて私が一番最初に覚えた歌は、母の子守唄だった。
私達家族だけしか知らない、おまじないの子守唄。
あの時の、どうしてなのか分からないけど、ほっとする時間。
懐かしいなあ。
家族は今頃、何してるだろう?
私が風邪だって知ったら、きっと怒られるんだろうな。
大人になっても、まだ面倒をかけるのかって。
いっぱい謝っても、きっと許してくれない。
だって――。
「くれぐれも、七瀬さんに移さないようにして下さいね」
考えごとをしている内に、どうやら寮まで帰り着いたらしい。
鍵のかかっていないドアノブをひねりながら、和泉さんが私に注意した。
大丈夫だ、そこはちゃんと心得ている。