第1章 :青嵐と不安と潮騒(彼女の世界と彼の世界)
「わっ、あぶない! 油断してると服が濡れちゃうね」
ひょこひょこと二、三歩下がって、彼女は手に持つバッグを慌てて肩に掛けた。中には財布や社員証が入っているので濡れては困る。
「さーて充分涼んだことだし、そろそろ移動しよっか。鎌倉に来たなら、やっぱ大仏を拝んでいかないとね」
「もう? まだいいじゃない。明日だってあるのよ」
「明日は明日で江ノ島に行くんだし、一日なんてあっという間に過ぎちゃうんだよ。行こ、行こ」
友人は自由人だ、と彼女は思う。海に入ろうと言ってさっさと遊び始めたかと思えば、さっさと切り上げる。少し強引さがある友人は、彼女にとってついていくだけでいいので相性はよいのだけれど。
「待ってよー。足に砂がついてて靴が履けないんだから」
足の砂をもたもたと払って拭っていた。と、背後から迫るような潮の轟きが耳に入って、本能的に動作が止まる。
「そこで履かないで靴をこっちまで持ってくればいいじゃん」堤防までとっとと歩いていく友人が、スカートの結びめをほどいて振り返った。叫ぶ。「――って! 後ろ!」
目の前では彼女の背後を指差し、恐怖と驚愕で引き攣っている友人の顔があった。硬直していた半身を無理に捻って、彼女は音の正体を振り返る。
――瞬間、白い飛沫を上げた大波に彼女は呑まれたのだった。
息ができなかった。
鼻から口から、潮水が吸い込まれるように流れこむ。抵抗するが、容赦なく咽喉に入りこんでくるのを止めることは困難だった。
(苦しい! 誰か助けて!)
助けを求めて手を伸ばした。その手は海面に届かない。
固く結んだ瞳を薄く開ける。ゆらゆらと白い光を伴う海面は、思ったよりも高い。
どこまで沈んでいくのか。得体の知れぬ何かに強く引っ張られるように、海中深く、彼女の身体は引き込まれていく。
無数のピンポン玉大の気泡が、目の周りを踊り狂っているのが気になった。これは何? 視界をひたすら悪くする気泡。考えて、ああ、空気か、と彼女は思った。
海中に舞う彼女の気泡が、ごぼっと鈍い音を立てて一際大きな泡を作った。
彼女の意識はそこで途切れることとなる。