第2章 :神業と出立と霹靂(そんな程度の女)
馬車は出発した。どこへ向かうのだろうと思っていたら、老人が馭者に向かって声を上げた。
「しばらくここらを回っていてくれ」
「分かりました」
さて、と老人は杖を突いて向き直った。
「難儀じゃったの。大丈夫かね?」
慰めの言葉がひどく優しかったので一気にぶわっと泣いてしまいそうになった。どんな人間なのかも分からないのに、たったその一言だけで気を許しそうになってしまう。不安で怖くてたまらなかった反動なのだろう。
「私、捕まるようなこと何もしていません。少し街のことを訊いただけ……なのにいきなり連行だって……ほ、本当なんです」
「知っておる。実は不思議に思うて、お主が一人で歩いているころから見ておった。憲兵が暴力を振るおうとしたとき、たまらず飛び出そうとしたんだが」
白い柳眉を寄せた老人の声は穏やかだった。
「若人に先を越されてしもうた。年を取ると決断に鈍るもんでの。すまんの」
いえ、とは小さく答えた。本当に助けてくれようとしたのだったら、この老人はいい人なのかもしれない。けれど口にした発言が真実かどうか、には正しい判断ができなかった。
「家はどこかね? 送ってやろう。教えたくなかったら、近くまででも乗せていってやるぞ」
温厚な面差しをは見つめた。街の誰もが自分を不審そうに見てきたが老人はそんな眼をしていない。まだ不安はあるが、
「帰る場所がないんです。どこにも行く当てがないんです」
老人は僅かに眼を丸くしたが、ややして弓なりにした。
「なら、わしの屋敷にくるかね。悪いようにはせんよ。温かいお茶を出してあげよう」
知らない人についていってはいけない。子供のころから母親が口を酸っぱくして言い聞かせてきた言葉である。大人になっても気をつけなければいけないことでもある。
けれどほかに当てがなかった。捨て猫のようなに差し伸べてくれる手を取ったって、怒られはしないだろう。
「頂きます、お茶」
にっこりと笑って老人はうんうんと深く頷いた。