第8章 幾望
ベランダの柵に凭れながら、智はずっと夜空を見上げている。
「あのお医者さんが…」
「え?笹野先生?」
「うん。点滴、してくれたとき…さ…」
「ああ…少し話したのか」
「うん…患者さんが死んだって」
「そっか…」
「その時にね…教えてくれたんだ。人の一生は空みたいなもんだって」
「え?空?」
「うん。レツビの降り注ぐ暑い時間もあれば、冬月の輝く寒々しい夜もあるって…ねえ、レツビってなに?」
「ああ…なんだっけ。強烈に照りつける夏の太陽だったかな?」
「ふうん…そっか…」
少し俯いて、足元を見た。
「今、俺は冬のヨヤミにいて…多分、夜の闇ってことだと思うんだけど…太陽は出ていなくても月が俺を照らしてくれてるんだって」
「月か…」
「だから…闇の中に居ても、完全な闇じゃないって、先生は言いたかったんじゃないかな…」
「そうなんだろうな…」
笹野先生、いいことおっしゃる…
俺には一回もそんなこと言ったことなかったけど。
なんか言わずにはいられなかったのかな…智には…
「今度、笹野先生にも会いに行こう?」
「うん…会いたい…」
「うんうん」
俺も柵に凭れて空を見上げた。
ぼんやりと月夜に浮かび上がる半月。
こんな都心で見えるのは、珍しいくらいだった。