第54章 もう全部諦めて、僕に抱かれろよ
私達は、千が予約したという宿に到着した。いかにもな木製の看板には “ 鏡水館 ” とある。キョウスイカンと読むらしい。
広々としたロビー。老舗旅館らしく、和を基調とした高級感溢れる雰囲気が漂っている。木造りの壁や柱を、赤や黄色の小物達が彩っており、どことなく秋の京都をイメージさせる。
千は、店の女将らしき人物と親しげに話をしている。やがてその女性は、私から荷物を受け取ると 部屋へと案内してくれた。
京都観光では、どこを見て回ったのか。紅葉はもう見たのか。そんな類の、旅館においての挨拶代わり的な会話をした後。女将はうやうやしく頭を下げて退室していった。
『こちらには、よく来られるんですか?』
「よくではないけど、たまにね。前は、モモや事務所のスタッフ達と来たんだ」
『良い旅館ですね』
「そうだろう?この旅館はね、1日に4組しかお客さんを取らないんだ」
全ての客は、もれなく離れの個室へと案内される。完全なるプライベート空間で、ゆったりと贅沢な時間を過ごせるという訳だ。
「贅沢でしょう?
でも、僕がこの旅館を気に入ってる1番のポイントは、そこじゃないんだ」
『お料理が美味しいとか?』
「料理も美味しいけどね。残念ながら不正解。
正解は…従業員の口が堅い。ってところ」
千は片目を閉じ、人差し指を口元に当てて言った。そして、悪戯っ子のような笑顔を浮かべる。
たしかに、口の軽いスタッフが働く宿に世話になるのは遠慮願いたい。反対に、従業員の教育が行き届いているのは素晴らしいことだ。
もし仮に。どこかのトップアイドルが 女と2人で一夜を共に過ごしたとしても、それが世間に漏れる事はないのだから…