第2章 センラ
「なぜ指名をしてくださらないのか?その原因がはっきりとしなくてね。やんわりと疑問をなげかけるんだが、いつも曖昧に誤魔化されてしまう。とにかく、一筋縄ではいかないような相手なんだよ」
上司はそれだけ言うと、やれやれと深い溜息をつきながら事務処理へと戻っていった。濃褐色の歴史帯びたソファーに腰掛け、ゆっくりとファイルの表紙をめくる。
「初出勤は誰に決まったのー?お、浦島坂田船じゃん!私、この前浦田さん担当したよ」
ここで働く事3年。ベテランの域となりつつある先輩の立川さんが通りがかりにファイルの中身を覗き込んできた。
「あー、この人なんだぁ。…まぁ、頑張れ」
担当利用者の名前を見た途端、彼女の唇が引き吊り笑いを浮かべたのを私は見逃さない。
「先輩、一度訪問されたことあるんですよね?」
「うーん、そうだね。この人、口調は穏やかだし、すっごく良い声だし、説明も丁寧だし話も面白いし」
ベタ褒めではないか。今聞く限りでは、全く問題があるようには思えないのだが。
「でも、気をつけた方がいいよ。正直、何が地雷かわからないんだよ。ニコニコしながら対応してくれるから、良い感じだなーってこっちは思っていたのに。後で次の利用をキャンセルしてくるんだ。何考えてるかわからない。だからなんとなく薄気味悪い。他の、こいつの担当についた子もみんな同じ事言ってる。中には、上から目線で偉そうだって言う子もいたし。兎に角、ちょっと癖のある捻くれてるお客様なんだよ」
そんな不安要素だけを増幅させて、先輩は今日相手にする客の元へと出かけていった。
気の重さを引きずったまま、都心の高級マンションへと辿り着く。とうとう、きてしまったのだ。インターホンを鳴らす前に手元に抱える分厚いファイルを仕舞おうと両手で持ち上げる。その時だった。
「もしかして、今回の新しい家政婦さんですか?」
突然、背後から誰かに話しかけられた。凛とした、透明感のある清らかな声。
心臓に突き刺してくるような、心がぎゅっと切なくなるような儚げな声色。こんなにも優しくて、こんなにも艶やかな声を私は今まで聞いたことがなかった。
なんて、綺麗な声なんだろう。
純粋に、ただ、単純に。それだけを思った。