第1章 あほの坂田(となりの坂田)
「あぁ!いつもお世話になってる!まぁ、そうだったの?家政婦さんがいつも着ているお洋服じゃないからわからなかったわぁ。ごめんなさいねぇ」
そうか。今、自分は普段着ているproの事務所のロゴが入ったポロシャツの上に坂田さんから借りた上着を着込んでいる。それで私だとわからなかったらしい。
「左耳が聞こえるから。そっち側で話してやって。それから、なるべく低い声でハッキリな。年寄りは高音が聞きとりにくいんよ」
坂田さんのアドバイスに従って私も菊江さんに近付く。
「菊江さん。家政婦の柳田です」
「あらぁ。お世話になってます。いつもありがとねぇ。そう、柳田さんっていうの。ずっと、お名前知りたいって思ってたのよ。嬉しいわぁ」
はじめて。菊江さんに、名前で呼んでもらえた。
じんわりと嬉しさがわきたって、涙が込み上げてきそうになった。
「ちゃんと、覚えとるんやな。香澄のこと。まぁ、今日だけ会った俺のことは家に帰ったら忘れちゃうんだろうけど」
そう優しく笑って、坂田さんは私の体に抱きついた。
「ッさっみぃ〜!香澄あったけぇ!あんだけスマートに上着貸しといてこのザマやん。おれ、今めっちゃかっこわるない?」
「いやマジかっこ悪すぎやろ…」最後にそう呟いて、彼は私の肩に顔をうずめた。この冷たい風が吹く寒空の中、半袖のTシャツ1枚の彼はそりゃ、さぞかし寒いことだろう。
それなのに、迷うことなく菊江さんに自分の上着を差し出す。この人はそういう、優しい人なのだ。
「そんなことない。坂田さんはすごく、カッコイイよ」
彼を抱きしめ体温を分け合いながら、私は小さくささやいた。