第1章 あほの坂田(となりの坂田)
坂田さんが貸してくれた上着を菊江さんにかけようと脱ぎかければ、後ろから強く静止される。
「えぇよ。きとき。俺、あんまさむないし」
そう言って、彼は自分の上着を脱いで菊江さんの体にそっとかけた。自分や坂田さんを認識した彼女はそっと私達に笑いかける。
その唇がわずかに震えているのが見てとれた。やはり、相当寒かったのだろう。
「菊江さん。家政婦の柳田です」
「あらぁ。どちらさま?わざわざご苦労様です」
「いや、家政婦の!柳田ですって!」
「まぁまぁ、従兄弟のはっちゃん家のお孫さんかしら?」
「違うよぉーー!家政婦の柳田ーー!」
いつぞやの、デジャヴともいえるこの会話。それを聞いた坂田さんが「ぶふぁッ」と盛大に吹き出した。
「あひゃひゃッ!なんなん?コントでもしとるん?」
「……してない」
ガックリと肩をおとす。今日も菊江さんに私の言葉は通じないらしい。
そんな私を尻目に坂田さんが菊江さんのすぐ隣にしゃがみ込む。菊江さんとちょうど同じ高さ、同じ目線になった彼は、彼女の右耳に口もとを寄せた。
「菊江さん!聞こえるー?」
「えぇ?」
わずかに反応した彼女の様子を見て「こっちかな?」と今度は左耳に口を近づける。
「き・く・え・さーーん!聞こえる?」
いつもより低い声。はっきりと、一文字一文字ゆっくり発音した話し方。
「はいはい。聞こえますよ」
「えっ!!」
通じた!はじめて。話の内容が!意思疎通がとれている!
私が驚いた表情をしている横で坂田さんは更に菊江さんに話かける。
「この子!いつもきてる!か・せ・い・ふ・さん!」
一つ一つの単語がしっかり発音される。低音で聞きやすい声色。私は遠くから叫んでばかりで、全然通じなかった。けど、こうして近くではっきりと話せば、ちゃんと菊江さんに届くことができたんだ。