第1章 あほの坂田(となりの坂田)
落ちそうになる涙を堪えるためにクッと唇を噛み締める。その時、力の入った私の手にそっと重なる大きな手がみえた。
「なんや、今日は緊張しとるわけでもないのに沈んだ顔しとるなぁおもてたんやけど。なんかあったん?」
坂田さんの落ち着いた声が背後から聞こえる。背中から、包まれるように優しい体温が私を抱きしめた。
「ちょっと、料理は一旦休憩しよか」
包丁の柄を固く握りしめる。その手の甲を包み込む彼の手。それが自分の手首へと移動すれば少し強めな力で掴まれる。
「こっち。来てや」
引き込まれるように彼の胸元に背中が当たる。その肩をもう片側の手で坂田さんが押さえ込んだ。
そのまま肩を抱かれたまま寝室へと促される。まだ、今日は掃除もろくに入っていない部屋。
だが、前回から日が経ってないからか?ベッドの上は何もモノがのっておらず綺麗なままだ。この前同様の定位置に座らされ、今回はその隣に「よいしょ」とかけ声をかけながら彼が座り込んだ。
「別に無理に話せってわけでもないんよ。ただ、あのままぼーっと料理しとったら手でも切るんちゃうかなって心配になってん」
今日の彼の声はいつもより低くて、落ち着いている。どっしりと地に構えているような話し方だ。
「俺といる時はさ。あんま、無茶してほしくないし。我慢してほしくもない。しんどい時はしんどいって言ったらえぇし、休んでも。全然えぇんやで?」
「わ、たし…」
坂田さんの優しい声に誘導されるように鼻の奥がツンッと染みた。涙と共に色んな感情もこみあげてきそうでキツく唇を噛む。
「あんなぁ…」
呆れたようなため息が彼から聞こえた。と、同時にどこか乱暴で荒々しく上半身を抱きしめられる。背中に回された腕の力がやけに強く感じた。
左胸と肩の間に顔を埋めれば、赤ちゃんのような匂いが鼻をくすぐる。彼の、彼自身の香りだ。