第1章 あほの坂田(となりの坂田)
言い終えるか終わらないかでそう言葉を遮られた。センラ、という人がどんな人物なのかは知らないが、良い印象ではない例えで用いられていることはよーく理解出来た。
少し頬を膨らませてムスッとしてみせれば、それをみた彼はふにゃりと柔らかく笑った。
「まぁ、楽しみにしとるから!出来たら呼んで?な!」
それだけ言って私の肩をぽんぽんと軽く叩くと、彼はサッサとリビングに退却してしまった。
そういえば、料理は得意ではないと事前情報に記載されてたっけ。
1人、キッチンに取り残された私は早速作業に取り掛かる。無音の中、黙々と調理をしていると昼間の事を思い出した。
菊江さんに歯をむき出して罵声していたあのお年寄り。怒りを全身で表して、相手の気持ちなどお構いなし。自分の気持ちさえ優先ならいいという、身勝手な感情。
あの時、菊江さんはどんな顔をしていたのだろう?相手の顔色を伺うのに夢中で、肝心の彼女の様子が何一つ思い出せない。
菊江さんは、本当にあの施設に楽しく通えているのだろうか?冷たい視線の、あの職員達の中で。
家で聞こえたお嫁さんの怒鳴り声。同じ施設に通うお年寄りからの暴言。菊江さんを責め立てる言葉、冷たい声の温度。
家でも、施設でも、あんな風に毎回嫌な思いをしていたとしたら?ぐっと下を向いて、悲しみを我慢していたとしたら?
認知症だから、ボケててすぐに忘れちゃうから。何も言わない、弱い老人だから…。だから、なにをしてもいいのだろうか?彼女が安心して笑える時間はどこにあるというのだろうか?
包丁を握る手に力がこもる。
その、菊江さんを守るチャンスが今日あの話し合いであったかもしれないのに。一方的なスタッフの言葉、決めつけて話を進める態度に気圧されて、私は諦めてしまった。
自分の意見を理解してもらうことを。もっと、違う見方があるということを。
私が課長のように頭がよかったら。私が馬鹿で言葉足らずだったばかりに。
そう思えば思うほど悔しさが積み重なる。どうしてもっと、こうしなかった?こう、出来なかった?という後悔が、感情が、波のように溢れた。
涙が、こぼれそうだった。