第1章 あほの坂田(となりの坂田)
手の先からさーっと血の気が引くのがわかる。脳みそをグラグラと揺らされたような。
沢山の人の嫌悪が突き刺さる。気持ち悪い。吐きそうだ。
こうなったらもう駄目だった。なにも言葉が出てこない。前を向くのが怖い。誤解なのに。本当に聞きたいことは、別にあるのに。
一度、掛け違えてしまったらもう修復は不可能だった。もしかしたら、この場に彼女がいたら。課長がいたら。上手くいく方法があったのかもしれない。
(私じゃ、私だけじゃ。やっぱり…駄目なんだ)
その後のことは酷く記憶が曖昧だった。ありがとうございました、と蚊の鳴くような声で自分がお礼を言ったことだけは覚えている。
結局、私はなにも聞けなかった。
のろのろと施設から遠ざかろうと足を進める。課長が手配してくれた送迎車をこれ以上待たせてはいけない。
駐車場へと歩みを進める私の前に別館らしきもう一つの建物が現れる。そこから数人の老人達がそれぞれ杖や歩行車を頼りにこちらへと向かっていた。
(あ…。菊江さんだ)
1人、腰を曲げながらも杖もなにも使わずに歩いている。転ばないように、一歩、一歩慎重に足を運んでいた。
菊江さんは誰かと会話をしているようだった。歩行車を使った老人がしきりに菊江さんに何か言っているのがわかる。それが菊江さんに対する罵声だとわかったのは歩みを止めて数分、その様子を眺めた後だった。
大口を開けて、入れ歯から放たれる唾が菊江さんの若草色のカーディガンに飛び散る。
止めないと!菊江さんを助けないと!
今にも駆け出そうとする自分のポケットから振動が走る。震えの元凶となるスマホを取り出せば、pro事務所と記載されていた。
「…はい。柳田ですけど」
「柳田。おまえ、今日訪問予定の坂田様の家にはもう向かってるんだよなぁ?連絡がねぇからどうしたもんかと思ってかけてみたが。まさか、まーだあの施設にいるわけじゃねぇだろうな」