第1章 あほの坂田(となりの坂田)
昔、兄や姉と違って勉強の出来ない私に母はつきっきりで勉学を教えた。机に向かう私の隣に座って。
ひとつ、問題を解き間違えると母が座る側の太ももをピシャリと一度、叩かれた。
それは毎日、繰り返された。私が間違える度に。何度も、何度も。
虐待、などという大袈裟な言葉を使うつもりもないし、今更、母にどうこうという気持ちがあるわけでもない。でも、あの時の嫌な感情があの音をきくと甦る。
ゾクリと頭の天辺から足の先まで寒気が走って、じわりと汗ばむ。特に暑いわけでもないのに。喉もとをゆっくりと汗が、なだれてくる。
咄嗟に振り向いた。お嫁さんがいるのはきっと和室だ。菊江さんと、何かあったんだ。
菊江さんの声が全く聞こえない。今、どういう状況なのだろうか?
再び室内へ足を踏み入れようとすれば、ポケットがわずかに振動する。確認する為にスマホをそっと取り出した。proの事務所からだった。
玄関を開けて、ひとまず外へと出る。スマホの通話ボタンをタッチすれば課長の「おまえ、今どこにいるんだ!?」という怒鳴り声をもらった。
「菊江さんの家です」
「まだそんなとこにいたのか?さっさと帰って来い!もう利用時間はとっくに終わってるだろ!」
「課長!それが…」
私は今起きた出来事を課長に話した。課長なら何か良い解決策を出してくれるかもしれない。そう思ったからだ。
「…そうか。事情はわかった。とりあえず、こっちに一度帰って来い」
「え?でも…」
「いいから!訳は後で話すから!さっさと来い!」
一方的に通話を切られ、渋々私はそこから離れることになった。後ろ髪を引かれる思いで、私は事務所へと足を進めた。