第1章 あほの坂田(となりの坂田)
どんどん大きくなる声。だが、なぜだろう?全く彼女に通じている気がしない。
「あぁ。向かいの中積さん家のお孫さんだったのねぇ。大きくなってぇ」
最終的に全く知らない人の名前が出てきた。しかも、その人で納得されてしまった。
がっくりと肩を落とした私はもう修正する気力も起きず、もうこのまま中積さんになろう、と心に決めた。
「はい。これあげるからねぇ」
皺の混じった優しい笑みで菊江さんは私に向かって沢山の飴玉を差し出した。手の中いっぱいに溢れんばかりに詰まった黒飴。その中の一つがこぼれ落ちそうになって慌てて手のひらでキャッチをした。
「家政婦さん、頑張ってるのねぇ。ほら、こんなにアカギレが沢山」
飴を無事受け取った私の手のひらを見つめながら菊江さんはそんな事をいう。
「いえ、これは頑張ってできたものではないんです。みんなだったらちゃんとゴム手袋をつけて作業するところ、私はうっかりし忘れて漂白剤に触ってしまって。ただの…自分のミスなんです」
こんな失敗ばかり自分はしてしまう。いつも、いつだって。
それを見た周囲は私の事を、怠けているとか、もっと真剣にやれって怒鳴る。特に父や母がそうだった。
でも、私は怠けているわけでは決してなくて。いつだって、必死に…やっていたのに。
「大変でしょう?このお仕事。たった1人で色んなお家に上がって、1人で色んな人の頼み事を聞くなんて。そうそうできることじゃないわ。本当に、毎日お疲れ様です」
そう言って彼女は私に向かって深々と頭を下げた。暫くして顔を上げた菊江さんは、私と目が合うと顔をくしゃくしゃとさせて笑った。
「そんな…わたし、なんて…」
きっと彼女は私でなくてもこうして褒めて、労ってくれるのだろう。いつだってどの家政婦さんにだってこう声をかけるのだろう。わかってはいるけれど、菊江さんの言葉が嬉しくて。彼女の優しさがジクジクと心に染みた。
怒鳴られて、嫌な顔をされて、ため息をつかれてばかりの毎日だったのに。今日は少し違う。昨日からずっと感じていた、嫌な緊張感がスッと抜けていく。
この感覚。救われたような、とても安堵する感じ。
あの時と一緒だ。坂田さんの家に訪問した時と、同じ安心感。