第1章 あほの坂田(となりの坂田)
「兎に角、私はもう行かないといけないから。やる事はいつも通りでいいわ。くれぐれもあの人が1人で勝手に出ていかないように。見張りをお願いしますね」
それだけ矢継ぎ早に言うと、大きなビジネスバックを持ち、女性はせかせかと出かけてしまった。「いってらっしゃいませ」と聞こえてはいないだろう相手への見送りを終えれば、静まり返った室内へ足を踏み入れる。
奥の部屋からカサカサと微かに物音が聞こえた。きっと、依頼主が言っていた『あの人』だろう。依頼主の義理の母にあたる人。
息子夫婦と同居をしている、御年85才になる菊江さん。軽い認知症(ボケ)がはいっているらしく同じ話を何度も繰り返す傾向がある、と書かれていた。
「こんにちは〜」
こそっと覗き込んだその部屋だけは畳が一面にひかれていて和室だった。他の北欧風なインテリアが揃う部屋とは別の家に来たのかと思うほど雰囲気が違う。
畳の真ん中に座り込んで、小鍋ほどの大きさの木箱を手に取り、菊江さんは中をガサゴソと荒らしていた。
自分の声が届いていないのだろうか?菊江さんの変わり映えしない動作に不安に駆られ、彼女の肩をトントンと優しく叩いてみる。
「あらまぁ?どちらさま?」
「勝手に部屋に入ってしまってすみません。proから来ました。家政婦の柳田です。よろしくお願いします」
私と視線があうと、菊江さんはチラリとポロシャツに印刷されたproの文字をみつめた。
「新しい家政婦さんねぇ。お名前はなんていうの?」
「え…?あの、柳田です」
そういえば、彼女は耳が遠いと情報に書いてあった。先程より大きめの声で再び自分の名前を伝える。
「えぇ?なぁにぃ?なにさん?」
「柳田ですーーー!!」
「えー?なにさんなのぉ?」
「いや、だから!柳田ーーーー!!」