第10章 私じゃない
「ただいま戻りました」
カホは本社に戻った。
部長に交渉の成功を報告すると満足そうに微笑んでカホの手を両手でぎゅっと握った。
「七瀬さんは我社の誇りだよ…!」
「はは、大袈裟すぎですよ部長。当たり前のことをしただけですよ」
カホはニコッと笑う。
「あ、部長。すいませんが、今日はあまり体調が優れないので早めに上がらせてもらってもよろしいでしょうか?」
「そうだったのかい?すまんな、無理させちゃったね。」
今日は本当にありがとね、と言って残りは自分がやっておくとカホのデスクにある書類を指差す。
「それは家に持ち帰ってやるので、そんな大丈夫ですよ」
「七瀬さん、こういう時は頼ってもいいんだよ。それに君はいつも人の何倍も働いてくれているし、体を休めるときはちゃんと休めなさい」
カホは部長の優しさに胸が温かくなった。
同時に苦しくなった。
体調不良なんて嘘だったから。
彼が家に戻る前に自分の荷物を整理したいのが本音だった。
「ありがとうございます、お願いしてもよろしいですか?」
「まかせなさい…!」
カホは頭を下げて部長に書類を手渡した。
本社を出て慌てて家へと向かった。
彼の車は駐車場にはなかった。
─ガチャ─
玄関の扉を開けてカホは一目散に自分の部屋へと向かった。
クローゼットを開けて次々と衣服を取り出す。
それらをキャリーバッグに詰め込んだ。
机に置いてある家族の写真、貴重品など必要なものを手に取る。
小物は最小限にした。
全部持っていくことはできない。
私はもうここへ帰ってくることはないのだから。
とにかく無心になって室内の物を取捨選択してはバッグへと入れる。
急がなきゃ…彼が帰ってきてしまう
彼ともし会ってしまったら何を言われるのか
それが怖くてたまらない
またあの冷たい目を向けられると思うと私はその場に耐えられないだろう
何を口走ってしまうのかも分からない
ホントのことを言ってしまうかもしれない
何も聞きたくない
彼の顔を見たくない
これは私の逃げ
でも今の私にはこれが最善策のように思えた。
もう入らない…
手提げもいくつか増え、これ以上持ち運ぶことは難しそうだ。