第10章 私じゃない
おかえりなさい、って仕事で疲れた私を出迎えてくれたのは安室さん。
彼は私にいつも食べたいものはないかと聞く。
私は彼の作ったものならなんでも好きだから、なんでもいいです、と伝えると困ったように笑う。
ポアロでいつもココアを出してくれたのも安室さん。
扉を開けると、いらっしゃいカホさんって笑ってカウンターへ案内してくれて。
こっそり伝えないで行くと家に帰ってなんで教えてくれなかったのかと聞いてきて。
驚かせたかったから、なんて言わなくてよかった。
好きです、って耳元で囁いてくれたのも安室さん。
誰かに好きなんて言われるのは久しぶりだった。
キスするのも、セックスも。
激しい時もあったけど、大事に優しく抱いてくれる時だってあった。
その時は本当に恋人みたいだな、なんて思った。
このまま彼の恋人になって、もっと好きだって伝えられればどんなに幸せなことだろうと。
好きです
ちゃんと彼に伝えたことは無かった。
下の名前で呼んだことも無かった。
彼からはそれを貰っていた。
でもそれはなんの中身もなかった。
いつか彼は自分の元から消えてしまう。
それは分かっていたはず。
だから、離れる時は楽でいられるって、
1人になって、居場所がなくなっても大丈夫だって、
全然そんなことないじゃない…
だからあれ程忠告したのに
大切な人は作るな、と
彼の隣に相応しい人は私じゃない
彼が本当の愛を伝える人は私じゃない
将来彼の横にいられる人は私じゃない
私じゃないんだ
こんな急にその時が訪れると思ってなかった。
段々彼の態度が冷めて、捨てられる
まだそっちの方がマシだったのに
なんでいつもこう急に消えちゃうの
「もういいかしら、早く行きましょう」
「ええ、時間を取ってしまってすいません」
彼らは隣でそう言って止めていた足を動かす。
ああ、ほんとにこれで最後なのね。
最後にもう一度…名前を読んでもらいたかった。
─カホさん─
その声はもう記憶の中でしか聞こえない。
ただ彼には感謝しなければいけない事がある。
彼には大切なものを貰っていたから。
私が1番欲しかった、探していたものを。
私は彼とすれ違う寸前に小さな小さな声で言った。
「ありがとう」
私に居場所をくれて。