第72章 たそがれの
「これ全部飲もうとしてました。」
霞守の顔は真剣だった。変な力なんてなくてもわかる。本当だ。
そしてそれを飲んだら霞守がどうなっていたのかもわかる。
「誰かに止められるとは思ってなかった。」
霞守はすっと真顔になって阿国に顔を向けた。
「まさか君が止めるとは。」
急に人が変わったような話しぶりに俺は驚いた。阿国は涙をぬぐった。
「誰だって同じことをします。あなたを知る人ならば、誰でも。」
阿国もまた人が変わったようだった。
「…………そう…………意外にも人に恩を売っていたらしいな…」
霞守はそう呟いたあと、立ち上がってゴミ箱に薬を全部捨てた。
「そんなものではありません、素直な気持ちです。あなたは優しいから…度が過ぎるほどにまで。だから他人に優しくしたぶんあなたに優しさが返ってくるのです。」
「………そらごとを。」
一瞬、空気がピりついた。
しかしすぐに和らいだ。
「兄さん」
阿国がそう口にしたからだ。
「ごめん阿国、もうしない。約束。な?」
すると元に戻ってにこりと笑った。
何が起こったのかわからなかった。俺と胡蝶は顔を見合わせた。
「………あなた達…何者なの?」
誇張が尋ねた。しかし二人とも答えない。
「あの薬のことも、お前が…そうしようと考えちまったことも、全部見逃せねェんだぞ。」
「そうよ。これは大きな問題なの。霞守くん、話せるなら話してほしいわ。」
俺たちが詰め寄ると、霞守はにっこりと笑った。
「無理。言えない。」
きっぱりと言われ、俺たちは唖然とした。
「せんせ」
そして、霞守は俺を見た。
「先生は、すごく辛いことがあって、泣きたくて泣きたくて、歯をくいしばって必死になったことってある?」
突然のことに反応できなかった。
その瞬間、俺は前世の記憶を思い出して、反射的に頷いた。
「それでも、生きようって思う?」
また頷く。
霞守は儚げに笑った。
「………そっか」
人が変わったようだった。
霞守のその笑顔がこびりついたように、真顔になってからでも離れなかった。