第60章 大正“幕引”ー始ー
着替えて濡れた服を外に干して庭に出た。無一郎くんはまだフラフラしているが、歩けはするようだ。
「師範は、僕に何も聞かないんですね。」
話しかけられて驚いた。
「昔のこととか、選別でのこととか、何も。」
私はその言葉の真意を何となく察した。記憶を保てないと言うのは、どうにも不安定な彼らしいことだが、きっとそのことで不快な扱いを受けたのだろう。
記憶を無理に聞き出そうとしたり、わからないと言っているのにそれをわかろうとしなかったり。
「みんな、僕をおかしい奴って言うんです。師範は言わないです。何も聞かないです。」
ああ、わかるなあ。
誰にも分かってもらえなくて、理解して欲しいとは思うけど、それは言葉にならなくて、頭の中だけがやかましくて、そのくせ口は何も話さなくて。
わかるよ。
それってすごく嫌だよね。辛いよね。
私は父親を殺した。隊士を殺した。
殺したかったわけじゃない。人間を殺したくてそうしたわけじゃない。けれど、私はそうしないといけなかったんだと思う。
殺した隊士は人望のある人で、友人がたくさんいて。鬼になりかけてしまったと言う報せを誰も信じようとしなかった。その人たちはあれやこれやと尾ひれをつけて、ひどい噂を流したのだと、氷雨くんに聞いた。
けれど何とも思わなかった。言い返したところで、きっとあの人たちは受け入れないだろう。
どうでもいい。どうでもいいと思ってしまった。
弁明したところで、尊い命を奪ったことに変わりはない。
けれど、辛いよ。誰も私の相手をしてくれないの。苦しいよ。両親にも愛されなかった私を、誰が愛してくれるの。
私は一人なの、皆逝ってしまった。
人を殺した私は、許されない。
鬼を斬ったところで、人を殺した罪は消えない。
「無一郎くんはおかしくないです。」
そんな言葉をかけたところで、この子は救われない。失われた記憶が戻るはずもない。
それでも、私はそう口にしていました。