第8章 微睡みの乙女
梅雨真っ只中の、ある日の午後。
「起きろ・・・、キリカ・・・」
居間の椅子で、うたた寝するキリカの身体を黒死牟は軽く揺すった。読書の最中に睡魔に襲われたのだろうか。小説を片手に微睡んでいる。すぅ、すぅ、と、規則正しい寝息が聞こえた。
「キリカ・・・、そんな体勢で寝ると身体を痛めるぞ・・・」
再び揺すったが、目を覚ます気配はない。
「まったく・・・」
黒死牟は小さくため息を漏らした。同時に昨夜かわした寝物語を思い出した。近頃、巷で流行っている恋愛小説について情熱的に語っていたキリカ。若い女性に大人気という小説に、寝るのも惜しんで夢中になっているようだった。
「巌勝様がいらっしゃらない夜は、ついつい朝まで読んでしまいます。だから、今日は寝不足で・・・」と、キリカは目の下にうっすらと隈を刻み、苦笑いしていた。
地雨で屋敷の周辺はぬかるんでいた。これでは外出するのも難儀である。数日前からキリカは一日の大半を読書に費やすようになっていた。意味の分からない箇所や読めない漢字などは黒死牟に聞き、その博識ぶりに感心しながら読み進めていた。
「・・、・・・、・・・、」
キリカの形の良い唇が何かを呟いた。その顔は羨ましくなるほど幸せそうだった。果たして、どんな夢を見ているのだろうか。
黒死牟はキリカの身体を抱き上げた。顔を己の胸元に寄せるようにして、しっかりと抱き、居間を出た。
門灯風の灯が灯された廊下を進み、キリカの私室へと向かう。
「・・・・」
立ち止まり 、キリカの寝顔をじっと見つめた。柔らかく閉ざされた瞼と、縁取るような長く濃い睫毛。幾度見ても美しいと思う。視線を腕の中の愛しい存在に釘付けたまま、しっかりと抱え直す。再び、歩き始めた。
「よし・・・」
褥に寝かせ、布団を目深に掛けてやる。外は厳しい梅雨冷えが続いていた。風邪でも引いたら大変だ。
「キリカ・・・」
腰を下ろし、低く呟いた。キリカの頬に触れる。白い肌は指を押し返しそうな張りに満ち溢れていた。
あの晩、助けたのは、ほんの出来心だった。
若く美しい娘。痩せているが、肉は柔らかく旨そうだった。骨まで食せば、更なる力をもたらすであろう極上の獲物。