第5章 ※雨の蜜夜 とこしえの契り※
「よくも、この恩知らずがっ」
憎々しげに叫んだ女将は悪鬼の如き表情をしていた。
「みんな、この恩知らずを捕まえておくれ」
騒ぎを聞き付けた従業員が店の中から出てきた。キリカを取り囲むように、じりじりと近寄ってくる。
どん。
キリカはいよいよ壁際に追い詰められてしまった。掌に、ざりざりとした土壁の感触がした。
(どうしよう・・・)
逃げなくては。キリカの胸元を冷たい汗が滑り落ちた。壁に背をつけたまま、少しでも移動しようとする。
「ー!」
伸びてきた数本の腕を、屈んで避ける。キリカは一瞬の隙を見逃さなかった。形振り構わず、包囲網から飛び出した。
「早く捕まえるんだよっ」
「待てっ」
「この野郎っ」
女将の、皆の、声や仕打ちが礫のようにキリカの心を抉る。
あれはキリカの知っている女将ではない。一緒に働いていた仲間達ではない。
キリカは、たまらず走り出した。
「ここは・・・」
キリカは鬱蒼と木々が繁る森の中にいた。頭上をぎゃあぎゃあと気味の悪い鳥が飛んでいく。
ここは何処だろうか。追っ手は振り切ったものの、完全に迷ってしまった。
ぽつり。
空から滴が落ちてきた。先刻までは雲一つない空が広がっていたと言うのに、いつの間にか、薄墨を流したような色に変わっていた。
古びたお堂を見つけたキリカは入り口の前に立ち尽くしていた。
中はかび臭く、クモの巣だらけだった。だが、雨に濡れるよりはいいだろう。意を決して、扉に手をかけた。ぎぃっと軋んだ音を立てて、蝶番の扉があいた。
手頃な場所に膝を抱えて座り込んだ。黒死牟の屋敷に帰りたくても道が分からない。これから、どうしたらよいのだろうか。
次第に強くなってきた雨音に、心細さが増していくようだ。
(黒死牟様・・・・)
今すぐ会いたい。声を聞きたい。そばにいてほしい。涙を含んだ睫毛をしばたたかせた。
大粒の涙が零れ落ち、膝の上に染みを作った。
「黒死牟様・・・」
啜り泣いた。孤独や絶望が、涙に形を変えて溢れ出てくるようだった。
「黒死牟様・・・」
もう一度、呼んだ。返事が返ってこないのは分かっている。それでも呼ばずにいられなかった。