第4章 月神 夜陰のむざね
「何もしないと仰ったばかりじゃないですか」
キリカは空いている左手で耳をおさえながら、黒死牟を軽く睨み付けた。
「それは気のせいだ・・・。気になるのは集中していない証拠だ・・・」
「・・・・っ」
図星だった。だが、この状況で集中しろ、と言われても無理な相談だった。どうしても意識してしまう。黒死牟の指の感触、声音、吐息、香り、全てがキリカの心を熱くする。
(集中しない、と・・・。せっかく教えていただいているんだから)
沸き起こる雑念を払うように、キリカは首を振った。再び、和紙に向き合う。今度は黒死牟の手を借りず、一文字ずつ丁寧に綴っていく。その眼差しは真剣だった。
「ふぅ・・・」
気付けば、髪の生え際には汗が滲んでいた。キリカは筆を置き、汗を手を拭った。
「黒死牟様、いかがですか?」
文字は子供っぽく、やや崩れていて、お世辞にも上手いとは言えなかった。だが、不格好ながらも必死に取り組むキリカの姿は目を見張るものがあった。
黒死牟は「ふむ・・・」と小さく呟くと、キリカに、より細かい指導を行った。キリカは黒死牟の教えを一言一句聞き漏らすまいと、神妙な面持ちで聞き入っていた。
休みなく、ひたすら書き続けた。部屋の中には紙の山が積まれていく。そうして、何刻かが過ぎた頃。ようやく、キリカの文字は様になってきた。
「今日はこれぐらいで良いだろう・・・。随分と上達したものだ・・・」
「ありがとうございます」
キリカの表情が生き生きと輝き始めた。黒死牟に労いの言葉を掛けられ、溜まった疲れが一気に吹っ飛んでいった。
「それは、教えてくださる方が素晴らしいからです。尊敬します」
「そんな事はない・・・。お前が打ち込む姿は称賛に値する・・・」
「それは褒めすぎです。早く黒死牟様のような字が書けるように頑張ります」
キリカがこぼれるような笑みを向ければ、黒死牟も目を細めた。キリカの頭に手を置く。子供をあやすように、優しく撫でた。
「あまり根を詰めぬよう・・・」
「はいっ」