第1章 月神と乙女
目を覚ますと、見慣れない天井が広がっていた。自分の部屋ではない事に気付くまで少しの時を要した。
(ここは・・・)
意識は霞がかかったように、ぼんやりとしていた。辺りに漂う花の香りの元を辿れば、それは自分が纏う夜着、しかもかなり上等な練り絹のものだと分かった。
(私・・・)
断片的な記憶を一つずつ、ゆっくりと手繰り寄せていく。
(・・鬼に襲われて、必死に逃げたけど・・、捕まりそうになって・・)
記憶と共に、鬼の声音や臭いも生々しく戻ってきた。
(怖い・・)
もしかして、その辺に鬼が潜んでいるのではないか。キリカは顔を強ばらせた。首を巡らせ、室内の様子を伺った。
広い室内は橙色の小さな灯りが二つ灯されているのみで、あとは闇に包まれていた。部屋の隅は不気味なほど暗く、今にも鬼が牙を剥いて襲いかかってきそうな気がした。
「目が覚めたか・・・」
ふいに障子の向こうで声がした。低く、落ち着いた男性の声だ。聞き慣れない声にキリカの体が緊張に固まる。飛び起きたかったが、体に力が入らなかった。
(誰なの・・)
鼓動が早まり、冷や汗が幾筋も滑り落ちていく。何とか体を動かそうとしたが、手足は震えるばかりで身動ぎすら出来ない。
「・・失礼する・・・」
静かに障子が空き、長身の男性が姿を現した。その顔を見た、キリカが「あっ」と声を上げた。
「あなたは、さっきの・・」
鬼に追いかけ回され、もう駄目だと思った瞬間、キリカの前に現れた男性だった。
「あなたが助けてくれたんですか?」
男性は「そうだ・・・」と極めて短く答えると、灯りに油を足した。室内が明るい橙色に照らされる。
(あ・・・)
キリカの視線は男性に釘付けになった。男性の容貌は筆舌に尽くしがたいほど整っていた。年の頃は二十代半ばぐらいだろうか。切れ長の双眸は涼しげで、鼻梁は高く通っていた。
額と首元には白皙に映える、炎の如き赤い痣があり、それが非常に特徴的でもあった。
これほど整った顔の持ち主と出会うのは初めてで、不躾と思いながらも、しばしの間、見とれてしまった。
「傷は・・・、痛むか・・・?」
キリカの視線を意にも介さず、男性は静かに言を紡いだ。そして、布団から少し離れた場所に正座した。